第五章:家族旅行(5)母の顔と女の影
朝の光が窓辺に差し込む頃、美香はキッチンで湯を沸かしていた。
ポットから立ちのぼる湯気が、静かな空間に揺れている。
背後から泰三が近づき、声を潜めて言った。
「昨日の夜…ちょっと、声が漏れてたかも」
「え…」
「大樹くん、聞いてたかもしれない」
美香は手を止めた。
湯気の向こうで、表情が母のそれに戻る。
羞恥と不安が混じり、指先がわずかに震えた。
朝食の席で、美香は遠回しに尋ねる。
「昨日、よく眠れた?」
「うん。疲れてたから、すぐ寝ちゃった」
「…そう。じゃあ、何も…聞こえなかったのね」
大樹はパンをかじりながら、目を合わせなかった。
その沈黙が、何よりも答えだった。
食後、泰三は
「少し一回りしてくる」
と言って出かけた。
別荘には、美香と大樹だけが残った。
静けさが戻ったテラスで、美香が声をかける。
「ねえ、大樹。ちょっと、お願いがあるの」
彼女は白いスコート姿のまま、背を向けてポロシャツの裾を持ち上げた。
「背中、日焼け止め塗ってくれる?」
肩甲骨が陽に透け、ブラのストラップが見え隠れする。
美香は髪をまとめ、大樹は戸惑いながらジェルを手に取った。
冷たい感触が母の背に広がる。
「昨日の夜…」
美香の声が風に紛れて届く。
「何か、聞こえた?」
大樹は手を止めた。
「……少しだけ」
言葉を選びながら、指先を動かす
。
「ママの声が…酔ってたのかな。甘くて、苦しそうで…」
美香は目を閉じた。
「……どんなふうに?」
「名前を呼んでた。泰三さん。『もっと』とか、『チンポ入れて』とか…」
彼女の肩がわずかに震えた。
「ごめんなさい。そんな卑猥な声、聞かせるつもりじゃなかったの」
「でも…止まらなかったみたいだった。何度もチンポ、チンポって叫んでた」
美香はポロシャツを下ろそうとしたが、手が止まる。
羞恥が背中から首筋へ染み込んでいく。
「……恥ずかしい。もう、顔向けできない」
大樹はそっと手を止め、残ったジェルを馴染ませながら言った。
「母さんが、誰かに愛されてるって…ちゃんと感じた。
声が苦しそうだったけど、嬉しそうでもあった。
それって、悪いことじゃないと思う」
美香は振り返りかけて、また目を伏せた。
「そんなふうに言われると…余計に、苦しくなる」
「僕は…母さんが笑ってる方がいい。
昨日の朝より、今日の母さんの方が…柔らかい気がする」
彼女は静かにポロシャツを下ろし、髪をほどいた。
目元には、羞恥と安堵が入り混じっていた。
「ありがとう、大樹」
しばらく黙ったあと、美香は彼の手を取って顔を近づけた。
「……ごめんね。こんな母親で」
その声は震えていた。
瞳には涙が浮かび、彼女は胸元に顔を寄せてそっと抱きしめた。
大樹は驚きながらも、動かずに受け止めた。
母の髪が頬に触れ、香りが風に混じる。
「あなたがいてくれて、よかった」
そう言って、美香は頬に唇を寄せた
それは母としてのキスであり、赦しを乞う祈りでもあった。
吐息が耳元で震え、そして静かに身を離した。
遠くから、自転車の音が聞こえる。
泰三が戻ってくる。
その音が、二人の空気を静かに変えていく。
美香は目元を押さえ、涙の跡を隠すように微笑んだ。
「さあ、テニスの準備しなきゃね」
大樹は頷きながら、少しだけ彼女の背中を見つめていた。
その背には、まだ日焼け止めの香りが残っていた。
泰三が戻り、大樹はサイクリングに出かける。
玄関先で自転車にまたがる大樹の背に、美香が声をかけた。
「気をつけてね。あんまり遠くまで行かないで」
彼は振り返り、少しだけ頷いた。
その表情には、まだ朝の余韻が残っていた。
美香はドアの影から身を乗り出し、手を小さく振った。
その仕草は、母としての名残と、何かを見送るような切なさを含んでいた。
「帰ってきたら、冷たいレモネード作っておくから」
大樹は何も言わず、ペダルを踏み出した。
美香はその背を見送りながら、胸の奥のざわめきをそっと押さえた。
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