第五章 家族旅行(1)
「ねえ、大樹。お盆休み、どこか行かない?」
美香の声は、台所から差し込む朝の光のように明るかった。
湯気の立つコーヒーをテーブルに置きながら、彼女は笑顔を向ける。
その笑顔に、どこか無邪気な期待が滲んでいた。
「旅行ってこと?」
大樹は新聞のページをめくる手を止めずに答えた。
「うん。せっかくだし、家族で。ね、泰三さん?」
呼ばれた泰三は、ソファに腰かけたまま、眼鏡を外して目を細めた。
「そうだな。高原なんてどうだ?涼しいし、空気もいい。
テニスコート付きの貸別荘があるって、美香が見つけてくれてな」
「テニス…」
大樹は小さく呟いた。
母と義父が、かつて同じ趣味を持っていたことを初めて知った。
その事実が、なぜか胸の奥で小さく軋んだ。
「大樹も、自然の中でリフレッシュしたら?最近、元気ないし…」
美香は心配そうに息子の顔を覗き込む。
「別に、元気がないわけじゃないよ」
そう言いながらも、大樹の声には熱がなかった。
「じゃあ、行こうよ。二泊三日。新婚旅行も兼ねてってことで」
美香は冗談めかして笑ったが、その笑いに、大樹は返せなかった。
沈黙が、三人の間に薄く降り積もる。
新聞の紙音、時計の秒針、遠くで鳴く蝉の声。
それらが、言葉よりも雄弁に、大樹の心の距離を語っていた。
「……わかった。行くよ」
しばらくして、大樹はそう答えた。
その声は、まるで自分の意志ではないように、誰かの代わりに
発されたものだった。
美香は嬉しそうに手を叩いた。
「やった!じゃあ、私が予約しておくね。荷物は軽めでいいと思う。
高原だし、涼しいから」
泰三も微笑みながら頷いた。
「久しぶりにラケット、引っ張り出すか」
その言葉に、大樹はふと、母のテニスウェア姿を想像した。
白いスコート、風に揺れる髪、笑う横顔。
そのイメージが、なぜか胸の奥に、言葉にならないざらつきを残した。
別荘に着いたのは、午前十時を少し回った頃だった。
高原の空気は澄んでいて、平地の暑さが嘘のようだった。
木々の葉は静かに揺れ、遠くの山並みが青く霞んでいる。
別荘のすぐ横には、白いラインの引かれたテニスコートが広がっていた。
「涼しいねぇ。やっぱり来てよかった」
美香はそう言いながら、車のトランクからラケットケースを取り出した。
大樹は無言で頷きながら、別荘の玄関へと向かう。
扉を開けると、木の香りがふわりと鼻をくすぐった。
荷物を置いたあと、美香は寝室へと向かい、着替えのバッグを手に取った。
「ちょっと着替えてくるね」
そう言って部屋の扉を閉める。
数分後、彼女はテニスウェアに身を包んで現れた。
純白のスコートが風に揺れ、その下には白いアンダースコートがわずかに透けて見える。
ピンクのポロシャツが肩に柔らかく沿い、髪は後ろでひとつに束ねられていた。
陽光を受けて、彼女の肌は淡く輝いていた。
その姿を見た瞬間、大樹は思わず目を見張った。
「どう?まだ似合うかな」
美香は少し照れたように笑いながら、ラケットを手にした。
その笑顔は、母としてではなく、ひとりの女性としての輝きを帯びていた。
大樹は言葉を失った。
「うん、とても似合っているよ」
それが精一杯の返事だった
目の前にいるのは、いつも台所に立っていた母ではない。
風に揺れるスコートの裾、陽光に透ける肩のライン、そして何より、その笑顔。
「…綺麗だ」
大樹は心の底からそう思った。
しばらくするとテニスコートでは、美香と泰三がラリーを交わしていた。
白いボールが空を切り、ラケットの音が高原の静けさに響く。
美香のスコートが風に揺れ、ポロシャツの裾が陽光に透けていた。
笑い声が時折風に乗って届く
。
「ほら、そっち行った!」
美香が軽く跳ねるようにボールを打ち返す。
「おっと、なかなかやるね」
泰三は笑いながら一歩踏み込んで、低い球を拾った。
「昔、町のクラブでちょっとだけやってたのよ」
「ちょっとだけ、でこの腕前?」
「ふふ、女はね、隠し事が多いの」
「それは…テニスの話だけじゃなさそうだ」
美香は笑いながら、ラケットを構え直す。
その笑顔は、家庭の中で見せるものとは違っていた。
自由で、解き放たれていて、まるで少女のようだった。
ラリーの合間、美香がボールを拾いながらふと顔を上げる。
その視線の先には、泰三がいた。
彼女の目が細くなり、口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
泰三もまた、ラケットを肩に乗せたまま、彼女に微笑み返す。
その笑顔には、言葉にしなくても伝わる何かがあった。
長く一緒に過ごした者同士の、静かな了解のようなもの。
少し離れた場所から、大樹はその様子を見つめていた。
母の姿は、どこか遠くの人のように見えた。
軽やかに動く足元、ラケットを振る腕のしなやかさ、そして何より、笑顔。
大樹は、胸の奥に何かが静かに焼き付くのを感じた。
それは、母への憧れとも、戸惑いともつかない感情だった。
彼はそっと視線を外し、別荘の脇に置かれていたレンタサイクルに歩み寄った。
サドルに腰を下ろし、ペダルに足をかけたそのときだった。
「気をつけてね、行ってらっしゃい」
美香の声が、テニスコートの方から届いた。
ラケットを脇に抱え、少し息を弾ませながら、彼女は笑っていた。
その声には、母としての優しさと、どこか遠くへ行ってしまいそうな軽やかさが
混じっていた。
「うん、行ってくる」
大樹はそう答え、ペダルを踏み出した。
続く
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