八重が帰ってこない。
京太郎は、壁に掛けられている古めかしい時計を眺めた。
これで、この時計を眺めたのは何度目になるのか。
11時を回っていた。
遅すぎる・・・。
もう一度、携帯電話を聞いてみた。
もしかしたら着信に気付かなかったのかもしれない。
期待したが、ディスブレイに現れた待ち受け画面はいつものままだ。
着信を告げる表示はない。
また壁の時計を眺めた。
ずいぶんと秒針の動くのがゆっくりに感じられる。
針の進む音だけが、やけに大きく耳に聞こえた。
どこへ行った・・・。
京太郎は、ほぞを噛む思いで待ちつづけた。
今朝、家を出るとき、八重に病院へ行けと言った。
夕べのことを思い出して出掛けに、行けよ、と京太郎が言ったのだった。
八重は、「わかりました」と応えた。
「いってらっしゃい」と、いつもの笑顔で送り出してくれた。
特に変わったところはなかった。
いつもと変わらぬ八重だった。
夕方になって帰ってみると、家に灯りが点いていなかった。
昼間、忘れ物をして、買い物にでも出掛けたのだろうと思った。
少しそそっかしいところがあって、よく忘れ物をする。
そんなところも、あいつの可愛らしさのひとつだった。
1時間が過ぎても、帰ってこなかった。
心配になって携帯電話から連絡をしてみたが、呼び出し音が鳴るばかりで応答がない。
5回ほど呼び出し音が鳴ると、留守番電話サービスに変わった。
「どこにいる?」
それだけのメッセージを入れて電話を切った。
いずれ気が付けば、向こうから電話が掛かってくる。
安易にそう思っていた。
しかし、いくら待てども八重からの連絡はなかった。
もう一度電話をしてみたが、やはり応答はない。
京介を思い出した。
あれは京介を猫っ可愛がりしている。
いくつになっても子離れができない。
ここのところ、何度も京介のアパートに足を運んでいた。
仕事に慣れたのはいいが、忙しくなりすぎてまともなメシを食っていない、などと里帰りしたときに京介がぼやいたものだから、心配した八重が土日になるとメシを作りに行くようになったのだ。
まったく困ったものだ。
いい加減自立させてやらなければ、京介だって結婚もできない。
あいつだって子供ではないのに・・・。
京介に何かあったのかもしれなかった。
心配性の八重のことだから、京介のこととなったら、些細なことでも脇目もふらずに一目散に飛んでいってしまうことだろう。
念のために京介にも電話を掛けてみた。
しかし、京介も呼び出し音が鳴るばかりで、携帯電話は繋がらなかった。
最近、部署が替わったばかりだと言っていた。
新しい所属先の番号はまだ聞いていなかった。
それにしても、二人とも電話が繋がらないとは・・・。
それから二度、八重と京介に電話を入れてみたが、やはり二人からの応答はなかった。
恥を忍んで、近くに住む八重の妹にも電話をしてみたが、やはり来ていないという。
「何かあったの?・・・」
義妹は、不安そうに訊ねていた。
これまで八重が騒ぎを起こしたことは一度もない。
嫌な胸騒ぎがした。
京介が電話に出ないことは、たまにあることだからそれほど心配ではない、
忙しいあいつは、携帯電話にも出られないほど、仕事に打ち込んでいることがよくある。
勤め人だし、職場には上司や同僚もいることだから、何かあれば、すぐにでもこちらに連絡が来るだろう。
だから、あいつは心配ない。
問題なのは八重だ。
今まで一度として、京太郎に無断で家を空けたことがなかった。
たとえ予定が狂うような手違いがあったとしても、必ず途中で京太郎に電話を掛けてきた。
その連絡が、ない・・・。
まさか・・・。
あってはならない不安が胸をよぎった。
ずっと頭の隅にこびりついている顔があった。
慌てて玄関の靴箱から安全長靴を取り出すと、足を突っ込んでいた。
靴紐を結びながら頭の中にあったのは、あの河川敷だった。
居ても立ってもいられなくなった京太郎が、捜索のために家を出たのが8時過ぎ。
それから2時間ほど河川敷を中心に八重の姿を探してみた。
結局、彼女は見つからなかった。
途中、警ら中のPC(パトカー)を捕まえて、それらしき人物を見かけなかったか訊ねてみたが、やはり彼らも、見ていない、と応えた。
「アタリ(人員捜索)を掛けますか?」
顔見知りの二人は、不安そうな面持ちで言ってくれたが、京太郎は断った。
「ちょっと二人で夜風に当たっていたら、はぐれてしまったんだ。大騒ぎするほどのことじゃない。心配させて悪かった。もう、家に戻っている頃かもしれないから、俺も戻ってみるよ。巡回お疲れさん」
それでも心配した二人は、「何かあったら、すぐ人を出しますから連絡して下さい」と言い添えてから、その場を去った。
二人の気の良さに感謝はするが、頼めるはずはなかった。
身内の失踪など恥以外の何物でもない。
それに、妙に勘ぐられて、同僚たちに痛くもない腹を探られても困る。
そんなのはごめんだった。
PCを見送ってから、本当に戻っているかもしれないと、京太郎は淡い期待を抱いて家に帰った。
やはり八重の姿はどこにもなかった。
12時を過ぎた・・・。
これ以上は待てない。
八重は、何かの事件に巻き込まれた可能性が高い。
体面など気にする余裕はもはやなかった。
これ以上待つことは八重の命に関わるかもしれない。
そう考えたら携帯を開いていた。
素直で優しい女だった。
いつも明るく、朗らかな笑顔を京太郎に向けてくれる。
あの笑顔を失いたくはなかった。
いざ覚悟を決めても、踏ん切りがなかなかつかなかった。
今年の夏には定年になる。
勇退だ。
だが、京太郎の最後は、定年に花を添えるどころか、このままでは泥をかぶって終わる。
公僕として奉職した三十数年は、物笑いの種で終止符を打つのだ。
手にした携帯を手のひらに弄びながら、時間が少しずつ過ぎた。
いよいよ、だめか・・・
仕方なかった。
諦めて、携帯電話から署に連絡を入れようとした、そのときだった。
カラカラと、引き戸の開く音がした。
玄関の引き戸だ。
京太郎は慌てて立ち上がると、居間を飛びだした。
「八重か?!どこに行っていた!!」
玄関に向かう廊下を小走りになりながら怒鳴っていた。
さっきまで心配していたのが、帰ってきたとわかるや、嘘のように怒りが込み上げてくる。
子供ではないのだから、連絡のひとつもいれればいいものを。
こっぴどく叱ってやろうと思った。
どうせならば、しばらくぶりに裸に剥いて、折檻でもしてやろうかとも考えた。
これまでも八重に男の気配を感じたことがないわけではなかった。
まれに八重は、京太郎以外の男の匂いを持ち帰ってくる。
男がいるのかもしれないと薄々は気付いていた。
それを問い質さなかったのは、京太郎にも責任の一端があるからだ。
身体の関係を持たなくなってから久しい。
だが、できないわけじゃない。
どうしても、八重では駄目なのだ。
あの可愛らしい顔を見てしまうと、なぜかできない。
しかし、今日ならば怒りにまかせて折檻するのも面白いと思った。
裸にして問い詰めてやる。
「どこに行ってたんだ!心配しただろう!」
玄関は廊下の突き当たりを曲がったところにあった。
「やっ!・・・」
角を曲がったところで、八重、と怒鳴りつけようとして京太郎は思わず息を呑んだ。
「八重?・・・」
目の前に幽霊が立っていた。
ぼんやりと虚ろな表情をしながら、八重が玄関に佇んでいた。
なんということを・・・。
あまりの悲惨な姿に目を背けたくなった。
顔の半分を額から流した血で赤く染め、もう半分を山姥のようにボサボサになった長い髪で隠しながら、ぼんやりと佇む八重は、まさしく幽霊が立っているとしかいいようがなかった。
「お、おまえ・・それは・・それはいったい・・・いったい、どうしたんだ?・・・」
震える声で、そうは聞いてみたものの、答えなど聞かずとも八重に何が起こったのかは一目でわかる。
通した袖のおかげでわずかに残っているだけで、ボロボロに引き裂かれたシャツは、ふくよかな乳房の膨らみをほとんど隠していなかったし、泥だらけになったスカートは切り裂かれて、白い内股が露わになっていた。
唇の端からも血は流れていて、ぼんやりと佇みながら何もない空間に目を漂わせているだけの八重は、痴呆のようにその唇を薄く開いているだけである。
「八重・・」
京太郎の視界が歪んだ。
八重の白い胸に赤い筋で十字模様が刻まれていた。
乳房と乳房の間、そこに縦に長く伸びた傷があり、やはり乳房の上を横切るように赤い筋が伸びている。
「八重ぇ・・・」
泣きながら手を差し伸べてみても、八重は応えるどころか、眉毛のひとつも動かしはしない。
壊れている・・・。
「八重ぇ!」
叫んだところで、八重は唇を薄く開いて無表情のまま立っているだけだ。
三和土を下りて抱きしめていた。
「八重!、八重!」
耳元で叫んでみようが、揺さぶってみようが、八重はまったく反応を示さない。
誰が、こんな真似を!・・。
血の涙を流しながら、京太郎は脳裏に顔のない男の姿を思い浮かべていた。
河川敷の強姦魔が現れた。
しばらくおとなしくしていたのに、あいつは我慢できなくなって八重を襲ったのだ。
きっとそうだ。
しかし、なぜ・・・・。
疑問はすぐに憤怒に変わった。
敵は取ってやる・・・。
お前をこんな目に遭わせた奴は、必ず俺が殺してやる・・・。
定年が近いといっても、現役の警察官である。
妻を陵辱されて、下を向いてしまうほどおとなしくはない。
壊れた人形となってしまった八重を抱きしめながら、その日京太郎は、必ず犯人を見つけ出して殺してやると、腕の中にある最愛の妻に誓ったのだった。
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