どうしよう・・・。
その言葉ばかりが頭に浮かんだ。
いくら激情に駆られたからといって、あってはならないことだった。
丸い小窓に赤い線が浮き上がっている。
妊娠検査薬を試したのは、これで2回目だ。
間違いはあると一度目は自分に言い聞かせた。
日を置いて二度目を試してみたが、結果は変わらない。
泣きたい気持ちになった。
京介を愛してはいる。
しかし、絶対にあってはならない。
しばらくトイレから出ることができなかった。
山奥に連れて行かれた日から、ひと月以上が経っていた。
予定通り生理が来ないのを訝しんで、すぐに妊娠検査薬を手に入れた。
八重は、よほど体調でも崩していないかぎり、しっかりと来るタイプである。
これまでちゃんと来ていたものが、急に来なくなったのだから疑わざるを得ない。
結果は、見事に期待を裏切ってくれた。
なにをどうしたらいいのかも、わからなかった。
幾度となくため息を吐いてから、泣きたい気持ちでトイレを出た。
「ずいぶんと長かったな・・・。」
居間で新聞を眺めていた夫の京太郎が、戻った八重に声を掛けてくる。
「え?ええ・・お通じが悪いものだから・・・。」
「そっか・・・。」
京太郎はそれだけを言って、また新聞に目を落とした。
八重は対面に座ると、コタツの中に足を入れた。
夏に向かい、電気は切ってあるから暖かさはない。
そろそろ押し入れにしまって座卓に代える時期だった。
病院に行こうかしら・・・。
でも、はっきりわかるかしら・・・。
いつならはっきりするのだったろう・・。
確か6週目だったような・・
明日行ってみようかしら?・・・
でも、心音が聞こえてからじゃないと教えてくれないはず・・・
いったいどうしよう・・・。
八重の頭の中には、自分の身体に起こりつつある異変しかない。
「病院へ行ったらどうだ?」
「えっ!?」
不意に京太郎が言った。
心臓を鷲掴みにされたように顔が青ざめた。
驚きの眼差しを京太郎に向けていた。
気付いてる・・・。
まさか・・・。
唇が震えた。
「おいおい、何をそんなに驚いた顔をしとるんだ?便秘だろう?お前、この前も長くトイレに入っていたじゃないか?便秘と馬鹿にしてると大変な目に合うぞ。お前も、それほど若くはないんだから、医者に診てもらったらどうだ?」
「あ・・え、ええ・・・」
そっちか・・・。
そうだ、一度目のときもずっとトイレから出ることができなかった。
心臓が止まるかと思った。
夫に気づかれでもしたら、なんと弁解すればいいのかわからない。
ここ数年、夜の生活はなかった。
夫の京太郎は、今年で55歳になる。
京介に似て精悍な顔立ちをしているが、さすがに頭には白いものが目立つようになり、額に刻まれるしわの数も、ずいぶんと増えた。
若い頃は、今の京介と同じで、それこそ八重が根を上げるくらい毎晩求めてきたりもしてくれたが、四十を過ぎたあたりから弱くなり、五十を前にしてほとんど枯れた。
今ではまったく夜の生活はなくなり、八重の身体を見ようともしない。
ベッドも別々だから気付かれる心配はないけれど、妙に勘が鋭くて、時々怖いことを言う。
「俺の定年前に倒れた、なんてことにならないようにしてくれよ。旅行も楽しみにしとるんだからな。行って悪いことはないんだから、早めに行っておけ・・・。」
京太郎はそれだけを言うと、また新聞に目を落としていった。
気付かれてはいないと知って、少しだけホッとした。
夫との営みがないのだから、妊娠などあり得ない。
「そうですね・・・。じゃあ、旅行も近いことだし、行ってこようかしら・・・。向こうでお腹でも痛くなったら、大変ですものね・・・。」
焦る気持ちが八重を性急にさせた。
どちらにせよ、早く楽になりたい。
夫は、新聞に目を落としながら、「そうしろ」とそれだけを言った。
京太郎は、今年の夏に定年を迎える。
警察官だった。
三十有余年の勤務を終えて、この夏、民間人に戻る。
定年したら、2人で旅行に出掛けようと計画していた。
夫から言ってくれたのだった。
「苦労を掛けてきた、せめてもの礼だ・・・。」
雄弁ではないが、気持ちは十分に伝わった。
初めから八重を驚かせようとしていたのかもしれない。
「もう、旅券は取ってあるんだ。」
そう言った京太郎は、照れたように2枚のチケットを八重に見せてくれた。
京介に山奥へ連れて行かれ、散々弄ばれて帰った晩のことだった。
八重は翌日になると、早速産婦人科へと足を運んだ。
数本の列車を乗り継ぎ、県外の病院を探した。
近所の病院へなど行ったら、たちまち噂になってしまう。
「心音とわずかですが胎嚢らしきものが確認できました。おそらく、五週から六週前後でしょう。」
検査を担当してくれた医師は重い口調でそう言った。
普通なら決まり文句の「おめでとうございます」はなかった。
「今年で四十・・七歳ですか。来年は八になってますね。どうされますか?」
カルテを眺めながら、また重い口調でつぶやいた。
産む産まないの意志決定権は、あくまで受胎した母親にある。
しかし、医師の言いたかったことはおそらく違うことだ。
「夫に・・相談しませんと、わかりません・・・。」
相談なんて出来るはずがない。
「そうですね・・・。では、念のためにもう一度検査することも含めて、来週ではどうでしょうか?予約を入れておきますので。」
「来週・・ですか?」
「ええ、どちらにせよ早く決めたほうが良いと思われますよ。11週までなら、堕胎も比較的楽ですから。」
この医師の頭の中には、すでに八重の選択肢は堕胎しかないと決め込んでいるらしい。
四十を越えれば、基本的に高齢出産になる。
高齢出産は、胎児に与えるリスクが大きい。
わずかではあるが染色体異常によって、ダウン症などの子供が産まれるケースがまれにある。
四十八ともなればなおさらで、より危険度は増す。
よほど子供を望んでいる夫婦でないかぎり、医師としては慎重にならざるを得ないのも、やむを得ないことだった。
八重は迷っていた。
産んではならない子供である。
しかし、産んであげたい気持ちもどこかにある。
可愛い京介の子供だった。
あの京介の子供を身籠もってあげることができた。
あの子はまだ知らない。
知ったら、喜んでくれるだろうか?
とにかく早く相談しなくてはならない。
「わかりました。できるだけ早く夫と相談して、どうするか決めたいと思います。」
「そのほうがいいと思います。」
彼の中で、相変わらず天秤は堕胎へと傾いている。
産めるはずがないと言いたげな顔だった。
お腹の子の未来を簡単に奪うつもりにはなれなかった。
「もし産むとなったら、その時はまたよろしくお願いいたします。」
産んであげたいのに、あげられない悔しさが、ほんの少しだけ八重を気丈にさせた。
だが、次に繰り出された医師の言葉を聞いて八重は愕然となった。
「もちろん、患者さんの意志にはできるだけ添えるようにしたいと思います。ですが良くお考えください。今後の参考のためにお教えしておきますが、あなたのお腹の中から聞こえる心音は2つあります。」
「えっ!?そ、それは・・・」
「双子かもしれません。」
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