「う、嘘って・・この傷の・・何が嘘なんですか?・・・」
八重は唇を震わせていた。
京太郎は、嘘を見抜いている。
落ち着き払った顔だった。
すべてわかっていると言いたげにまっすぐとした瞳が向けられていた。
その眼差しは相変わらず暗い。
深い湖の底のような冷たい瞳が、絡め取るように八重を見つめている。
「その傷がなければ俺も信じるところだった・・。」
「嘘じゃ、ありません・・・わ、私は本当に・・」
「言うな・・。これ以上嘘を吐きつづけるなら、俺も正気ではいられなくなる・・・」
自分に言って聞かせているようだった。
「傷の付き方が不自然なんだ。河川敷の強姦魔はそんな傷を刻んだりはしない。」
ここで下を向いてしまうわけにはいかない。
八重はむきになって言い返した。
「じゃあ・・じゃあ、どんな傷なんですか?・・・。」
訊ねられて、京太郎が薄く笑った。
「それは見事なものさ。芸術的といっても言い。見事なナイフさばきで奴は女の肌を皮一枚だけ切り裂くんだ。それもほとんど変わらない深さでな。おそらくそこには躊躇いや後悔なんてものは微塵もないのだろう。冷徹な目で眺めながら、奴は躊躇いなく女の胸を切り裂いていく。お前の胸にあるような不細工な躊躇いなどないんだ」
躊躇い・・・
確かに京介は、できるだけ浅く切ろうと気遣っていた。
何度も手を止めては、その出来映えを眺めて確かめてもいた。
「そ、その人だって、人間ですもの・・間違えることだって・・」
認めるわけにはいかない。
その強姦魔がどんなに見事にナイフを使おうとも、八重の傷をつけたのは、やはり河川敷の強姦魔でなければならないのだ。
だが、京太郎はあっさりと否定した。
「それがないんだよ。奴は間違えなど犯しはしない。だからこそ、これまで身元が割れるような証拠も残してこなかったし、逮捕だってされなかった。奴は頭がいいんだよ。そして、芸術的センスもある。」
「芸術的センス?・・・・」
「ああ、そうだ。なにゆえ俺が、お前の胸につけられた傷が偽物だと断言できるか教えてやろう。まず今言ったようにお前の傷には躊躇いがある。深さもまちまちだし、所々が曲がって美しさがない」
美しさ?・・・
「そ、それは、私が逃げようと暴れたから・・」
「言ったろう。奴には躊躇いなどないんだ。ほんのわずかな時間で切り裂くんだよ。だから傷に迷いがない。人間の身体にある微妙な凹凸さえ、奴は手のひらで感じて均一な線を刻んでいくのさ。被害者となった女たちもきっと暴れたに違いない。むざむざと胸を切り裂かれるのを待つ馬鹿はいないからな。だが、抵抗も虚しく彼女たちは皆同じように一直線に胸を切られている。奴は突き立てると同時に刃を滑らせているんだ。彼女たちの脅えた顔を眺めて楽しみながら、じわじわとナイフを近づけ、刃先が胸に突き当たると同時に躊躇することなく刃先を滑らせるわけだ。かすかな痛みを覚えたと思った次の瞬間には、被害者となった女たちの胸には一生消えることのない烙印が刻まれているのさ。さぞや膣もよく締まったことだろう。瞬間的な痛みは反射的に身体をひくつかせるからな。」
笑っているようだった。
途中からは、恍惚とした表情さえ浮かべていた。
「だが、奴はまだ射精しない。我慢するんだ。まだ完成していない。まだ女に罰を与えきっていない。それが奴の目的なのさ。
奴にとって女はすべて淫売だ。罪深き咎人でしかない。その咎人に罰を与えるために奴は女の胸を切り裂いているんだ。それが神から与えられた奴の使命なんだよ。二度と彼女たちが淫売に戻らないように胸に十字を刻んでやるわけだ。
胸を切り裂かれて無惨な傷をつけられ、二度と男に愛されることのない身体になったと知った女たちの絶望はいかばかりか。それでも奴は彼女たちを許そうとはしない。さらなる絶望の淵へと追い込むために、ふたつ目の傷を作るんだ。
罪深き咎人に一生消えることのない十字架を背負わせるためにな・・・」
そこに八重が知っている京太郎の姿はなかった。
まるで犯人を賛美しているようにも聞こえる。
「俺が芸術的センスというのは、奴が描く十字架のことさ。
八重、お前の胸に刻まれたのはなんだ?」
八重は恐る恐る自分の胸に手を当てた。
「十字架・・だと思います・・・。」
「そうだ。お前も十字架を背負わされたわけだ。きっと罪深き咎人なんだろうな。」
暗に不倫しているだろうと言っている。
八重は何も言えなかった。
じっと脅えた眼で京太郎を見つめ返すだけだった。
「だが、同じ十字架でもお前の傷は違うんだよ。あの河川敷の強姦魔が刻むような芸術的な傷じゃない。」
「げ、芸術的って・・・」
「まだわかっていないみたいだから教えてやろう。お前がつけられた十字架と、奴が刻む十字架には決定的な違いがあるんだ。」
「違い?」
「そうだ、河川敷の強姦魔がつける傷は、そんな形ではない。」
「え?」
「それは違うんだよ。違うんだ。あの河川敷の強姦魔がつける傷じゃない。」
違う・・・。
「初めは模倣犯かと思った。だが、警察は被害者の胸につけられた傷について発表していない。犯人しか知り得ない秘密に当たるからだ。なのにお前は、河川敷の強姦魔につけられたの一点張りだ。それで悪巧みに気付いた。」
「わ、悪巧みだなんて・・・。」
「黙って聞け。誰に教えられたかは知らんが、そいつは被害者の胸に十字が刻まれることは知っていても、実際に模様を見たことはなかったんだろうな。だから間違えた」
間違えた?・・・。
「被害者たちの胸には、確かに十字模様が刻まれていた。だが、それは普通の十字架じゃないんだ。」
「ふ、普通の十字架じゃない?・・・」
だって、京介はこの人から聞いたって・・・。
だから、こんな傷を・・・。
八重は、驚いた顔で京太郎を見ていた。
「アンドレア十字さ・・・」
「アンドレア・・十字?・・・。」
聞いたことがなかった。
「せっかくだからお前にも教えておいてやろう。この世の中には十字架と呼ばれるものが幾つか存在する。有名なところではキリストで有名なラテン十字、あのロザリオにも使われる奴だな。他にもエルサレム十字やロシア十字なんてものもある。同じ十字架でも教派や教えによっては微妙に形が違ったりするんだ。アンドレア十字は中でも得意な十字架で、その形に大きな特長がある。わかるか?」
暗い目が八重を見つめていた。
八重は震えながら、小さく首を横に振った。
「わかるはずがないな。だからこんな失敗を犯した。普通、十字架と言えば長い縦木に短い横木がクロスしたキリストの十字架を誰だって想像する。きっとお前に知恵をつけた奴もそう思い込んだんだろう。だが、アンドレア十字は違うんだ。アンドレア十字もクロスするがその形が違う」
京太郎は、八重の胸を指差した。
そして向けた指先で、大きな×印を描いた。
「Xの形に聖木を組み合わせるのさ。日本的に言うと「×印」とでも言えばわかりやすいか?コンスタンティノープル総主教座の守護聖人とされる聖アンドレアはイエスの弟子のひとりで、やはり彼も後に弾劾されて十字架に磔にされた聖人のひとりだ。だが、彼は磔にされるときに師であるイエスと同じ十字架では畏れ多いと聖木を×印に組み合わせものを用意させた。そして彼はその十字架に磔にされたんだ。以来「X」型の十字架はアンドレア十字と呼ばれるようになった。被害者の女たちはみな胸に十字を刻まれていたが、その形は両方の乳房の上下を交差するように線は引かれていた。お前のように単純に縦と横に線が引かれていたわけじゃないんだ。×印になるようにそれぞれが斜めに引かれていたのさ。それを知らなかったお前たちは普通の十字架を描いてしまった。それで気付いたのさ。」
八重はパジャマの前を手のひらに握った。
その手が無惨なほど震えていた。
「俺が芸術的センスと言ったのは、それを知っていたからさ。これでわかったろう?お前の傷が河川敷の強姦魔につけられた傷じゃないと言い切った理由が・・」
声も出なかった。
どうしたらいいのかもわからなかった。
「さあ、お前には聞きたいことがある。なにゆえそんな傷まで作って俺を騙そうとした?なぜ、京介が逮捕される羽目になった?それを正直に答えてもらおう。」
答えろと言われたところで言えるはずもない。
実の息子の子を孕んで、その子を産みたいばかりに狂言に及んだ。
ところが、どうしたわけか同じ時間に真理子が殺されていて、京介がその犯人にされてしまった。
真相がわかるものなら、八重のほうこそ、どうしてこんなことになったのか教えてもらいたいくらいだ。
しかし、そんな言い訳などできるはずもない。
唇を震わせて黙っているだけの八重を、京太郎はまだシラを切り通すつもりと思ったらしい。
「答えられないなら、答えられるようにしてやるまでだ。俺はお前を愛している。いや、愛してきた。だが、それも今日までだ。俺を裏切った罪は重いぞ。」
暗い瞳に炎が宿った。
ジリジリとにじり寄ってくる京太郎は、かつて八重が知っている夫の顔を失っていた。
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