「どんなナイフだった?」
何かが違う。
八重がそれに気付いて思い出そうとしたとき、思考を遮るように質問がぶつけられた。
「え?・・・」
不意に聞かれて、八重は言葉に窮した。
どんなと言われても、あの時は怖いばかりで詳しいことなど覚えていない。
たしか、折りたたみ式だった。
ナイフの柄を両側に広げたら、飛び出たように真ん中に刃が残っていた。
映画やドラマの中で、よく不良少年たちが使うようなナイフだった気がする。
「よく、覚えてません・・・」
京太郎には言わなかった。
もしかしたら、京介が持っているところを見たことがあるかもしれない。
迂闊なことを言うのは避けるべきだった。
「奴はお前に何か言ったか?」
「いえ、怖くてよく覚えていません・・。」
「特長とか何かなかったか?」
「わかりません・・」
「他に何か気が付いたことは?」
「よく、覚えていません・・」
京太郎は大きなため息を吐いた。
要領を得ない答えばかりに苛立っているようだった。
「河川敷で他に怪しい人影を見た記憶は?」
「わかりません。とにかく暗かったものですから・・・。」
不意に京太郎が俯いた。
「だったらどうして・・・、どうして、そんなところにひとりで行ったんだ!?」
語気が強まっていた。
ひざに置いた手が硬く握りしめられ、ふるふると震えている。
「申し訳、ありません・・・」
謝るしかなかった。
しばらくふたりは俯いたまま、何も話すことができなかった。
こいつは・・嘘をついている・・・。
京太郎は気付いていた。
八重は答えを返すときに、自然と視線が右に流れていた。
ひとは嘘をつくとき、知らず知らずに右を見る。
こいつは、間違いなく何かを隠してる。
思い当たることは、あった・・・。
「気持ちよかったのか?・・」
京太郎は俯いたままだった。
「え?」
八重は、一瞬耳を疑った。
「何回やられたんだ?」
顔を上げた京太郎の目が暗い。
「あ、あなた・・なにを・・」
「どうして毛がないんだ?」
矢継ぎ早に聞かれて息を飲んだ。
すっかり剃られてしまった性毛のことを言っている。
「そ、それは・・旅行に出掛けるので、その前にお手入れを・・」
「そんないいわけが通用するとでも思っているのか?」
さっきまでの思いやる顔はもうなかった。
まるで汚いものでも見るような目つきに変わっていた。
「お前に男がいるのは知っている。本当は、夕べその男に会いに行ったんだろう?」
「ち、違います!」
「お前は男に会うためにあの河原に行った。京介はそれに気付いていて確かめに行ったんじゃないのか?母親が淫売に成りさがったのを確かめようとして、あの事件に巻き込まれた・・・。本当はそうじゃないのか?」
「淫売だなんて・・・」
八重を見つめる双眸が暗い。
ふと京太郎が何か閃いたような顔になった。
「産婦人科へ行ったと言ったな?お前・・・もしかして孕んだのか?」
心臓を鷲掴みにされたように八重が表情を凍りつかせた。
「そ、そんなことありません!」
必死に否定したが、狼狽えていたのはあきらかだった。
「それが答えか。どうせ調べればわかることだ。そうか、お前は不倫相手の子を身籠もったのか・・・」
そこまで言ってから、何かを考えるような顔つきになった。
「まさか産むつもりじゃないだろうな?それでこんな猿芝居を演じたのか?不倫相手の子供を産むために強姦ごっこをやらかしたわけか?」
み、見抜かれている・・・。
「そ、そんなこと!あるわけないじゃないですか!?自分の妻になんてことを言うんです!?わ、私は、知らない男に襲われたんです!?あ、あの河川敷の強姦魔がやったんです!?」
八重は血相を変えて抗弁したが、京太郎は顔色ひとつも変えようとしない。
暗い目で見つめたままだ。
「信じてください!あの河川敷の強姦魔がやったんです!あの人が現れて私を襲ったんです!!」
「無理だな・・・」
観念しろと言いたげな声だった。
「どうして信じてくれないんですか!?あなたは妻の言うことが信じられないんですか!?不倫なんかしていません!本当です!信じてください!!考え事をしていたら、あの強姦魔に襲われたんです!本当なんです!信じてください!!」
「仮に百歩譲ってお前が襲われたとしよう。だがお前を襲ったのは河川敷の強姦魔じゃない。違う奴だ。」
「どうしてそんなことがわかるんです!?私を襲ったのは、あの強姦魔です!決まってるじゃないですか!?」
八重は必死に訴えつづけた。
額を切って血まで流した。
信憑性を持たせるためだったのか、意識を失いかけるほど叩かれもした。
そして、犯人は強姦魔だと思わせるために、痛い思いを我慢しながら一生痕が消えないような傷までつくられた。
この状況から導き出せる答えは、ひとつしかない。
世間を騒がせている連続強姦魔が現れて八重を襲ったのだ。
こつこつと犯人を追い続けていた夫にはそれが一番わかるはずだ。
それしか、答えはないはずなのに、夫は八重を信じようとしない。
わけがわからなかった。
涙が溢れ出していた。
どうしていいかもわからない。
「どうして・・・どうして信じてくれないんですか・・・・」
「お前が嘘を言っているからだ。」
「嘘?・・・何が嘘なんですか!?私はこんな傷までつけられたんですよ!これも嘘だって言うんですか!?」
自分の胸を押さえながら、涙を流して訴えた。
嘘をついているなどは百も承知している。
つき通さなければならない嘘だった。
こんな傷まで負わされても、押し通さなければならない嘘だった。
絶対に夫に知られてはならない。
八重の訴えに、京太郎が短く答えた。
「その通りだ。お前の胸のその傷が嘘なんだよ」
あっさりとした口ぶりに、八重は惚けたように口を開けたまま夫の顔を眺めるしかできなかった。
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