「あ、あぁ、上本さん…ど、どうもその節は大変にお世話になりまして」
相手の声で記憶が鮮明に戻った僕のほうが、誰もいないはずの室を見回すような
素振りをして、少し動揺した声も何故か潜めがちになっていました。
「い、いえ…いいんです。もういつまでもそのことは仰らないでください。…そ
れより、今、ご迷惑ではないですか?」
相手のほうもかなり恐縮しているような感じの声でした。
「えっ?ええ、かまいませんよ、自宅ですから」
「あ、あぁ…じゃ、奥様も?…まぁ、どうしましょう」
「妻は出かけています。気になさらないでください」
「お電話差し上げようかどうか、随分迷ったのですけど…ほんとにすみません」
もう今にも消え入りそうになるくらいに、相手の声は小さくなっていました。
「ほんとはご迷惑をおかけしないように、明日にでもと思ったのですが…」
と言葉を続けた彼女の恐縮ぶりが目に見えるようだったので、
「あぁ、全然かまいませんよ。僕一人ですから。…で、何か?」
と僕はわざと明るい声で、小さな嘘を付け加えて彼女に応えました。
「あ、はい…すみません。今朝方にまた警察のほうから連絡ありまして…山梨の
甲府警察署なんですけど」
「あぁ、それじゃあ、ご主人のことで?」
「え、ええ。主人の遺品を返したいのと、最後にもう少し話を聞きたいといわれ
て…」
「そうなんですか。…もう、間もなく四十九日におなりになるんじゃないですか
?」
「ええ、来週なんですけど…。もう、四年も行方不明になっていて、私も知らな
いところで、突然、交通事故で亡くなって…前にも警察の方にいったんですが、事
情なんて何もわかりませんので」
「あぁ、そうですよねぇ。…それで、今から出かけるんですか?」
「ええ、警察の方もこれが最後だといってましたので。…ごめんなさい、近くに
誰も頼れる人がいなくて、何かとても不安だったので…ご迷惑を承知でお電話して
しまいました、ほんとにごめんなさい…」
「今からだと、遅い帰りになりますね。お一人で大丈夫なんですか?…あ、それ
と娘さんは?里奈ちゃんっていいましたっけ?」
この時に、室の襖戸が開く気配がして、携帯を耳に当てたまま振り返ると、義母
がかすかな戸惑いの表情を見せて、静かに室に入ってきていました。
僕の胸の中に小さく波立った動揺をおし隠して、顔は平静を装い、携帯の声に耳
を傾けました。
「ええ、娘のほうは仲良くしていただいてる近所の奥さんが、預かってくれるの
でいいのですが…」
「お二人とも、確かお国は九州とか仰ってましたもんねぇ。…あの、何時の電車
に乗られます?」
「え?…ええ、私もヘルパーの仕事がお昼まであったので、今、自宅でバタバタ
してて。五時前後くらいの電車に乗ろうと…」
「山梨の甲府っていうと中央線ですね?…あの、もしよかったら、何のお役にも
立てないかも知れませんけど、甲府まで僕がお供しましょうか?」
「えっ?いえ、あの、そんなつもりでお電話差し上げたんじゃありませんので。
…気持ちが少し動揺してて、ついあなたのことを思い出し…」
「かまいませんから僕は。じゃ、後でまた連絡しますので携帯の番号教えてくだ
さい」
番号を聞いてから、僕は相手の返事を待つことなく、携帯を切りました。
「何かあったの?」
普段着に着替えた義母が布団を畳みながら、少し不安げな表情で問いかけてきた
ので、
「あ、うん。…僕の仕事で前に随分とお世話になった人がね、年の始め頃に交通
事故で亡くなっていて、その人の奥さんなんだけど。警察のほうから今頃になって
遺品の返却があると電話があったらしくて」
僕はまだ胸にさざ波を感じながらも、落ち着いた口調で、
「その人、四年ほども行方不明になっていてね、それで交通事故死というので、
何か色々あったみたいで…」
と言葉をゆっくりと継ぎ足しました。
「そう…あなたと同じお役所の方なの?」
義母は布団を入れるのに押入れに何度も足を運びながら、僕とは目を合わすこと
なく問いかけてきていました。
「いや、ある地区の町内会の役員をやってみえた人で、ずっと前に道路の改修工
事で、その地区の用地買収に行った時、大変にお世話になった人で、それまでは年
賀状も何度かくれてたんだけど…」
次から次に嘘が出てくる自分に、僕は内心驚きながらも、平静を保つのに必死で
した。
「…それで、一緒に行ってあげるのね?」
顔も目も合わさず抑揚のない口調でいう義母の声が、小さな針のように僕の胸に
刺さってきていました。
「うん、その人が何で行方不明になったのかは、僕もあれから付き合いないので
知らないんだけどね。何でもご夫婦は九州出身とかいってて、近くには身内の人も
いないみたいで」
「おいくつの方なの?」
「五十は過ぎてたんじゃないかな?」
「それじゃ、奥様は?…娘さんが見えるとかいってたけど」
カーペットに正座して折り畳んだ毛布の表面を手で払いながら、義母は顔を俯け
たまま、少しいい澱むような口調で聞いてきました。
「うん、子供がまだ小学生っていってたけど、四十代くらいかな?」
虚言を吐く僕と目を合わそうとしない義母との間に、微妙な空気が流れていまし
た。
少しの間の沈黙の後、
「そう…今は急なことだから仕方ないけど、それにあなたがお世話になった人の
ことだから行ってあげるのは当然なのだろうけど…浩二さんは誰にも優し過ぎるか
ら、それから後は気をつけなければね…」
義母の静かな口調ながらも、女としての鋭敏な洞察力に、正直なところ僕の内心
はたじたじとした思いになっていました。
義母のそれとない忠告めいた言葉には、僕は敢えて声を返さず、首だけ小さく頷
かせて、
「今、何時なの?」
と話をはぐらかすように聞きました。
「三時を少し過ぎたくらいよ」
と義母は応えて、僕の表情を何となく察してか、それ以上そのことへの言葉は継
いできませんでした。
「どこまで行ってあげるの?何時の電車?」
「うん、山梨の甲府まで。…五時くらいの電車っていってた」
それから僕は二階に上り、私服に着替えて階段を降りようとすると、まるで僕を
待っていたかのようにダイニングのドアが開き、義母が静かに出てきました。
そのまま僕が階段を降りると、両手を胸のところで合わせて何か妙に思い詰めた
ような表情を浮かべて、僕に近づいてきました。
「どうしたの?亜紀子…」
といって僕が義母のか細い肩に手をかけようとする前に、いきなり彼女は僕の胸
を目がけてぶつかるような勢いでしがみついてきました。
そのまま腕を僕の背中に廻してきて、顔を胸に埋め込んできたのです。
「何?」
唐突な義母の動きに僕は少し戸惑いながら、上から彼女の顔を覗き込もうとする
のと、彼女の顔が僕を見上げたのが同時でした。
見つめ合った義母の眼鏡の奥の目が、何かを僕にいおうとしていました。
その前に僕の顔が俯き、義母の震えているような赤い唇を自然な動きで塞いでい
ました。
すると義母の顔も爪先立ちでもしたかのように、僕の顔に近づいてきていて、重
ねた口の中で、彼女のほうから舌を絡めてきたのです。
僕にすれば予期していなかった唐突な感じの義母との抱擁でしたが、首に巻きつ
けてきている彼女の腕の力の入れように、少しばかりたじろぎを覚えながらも、廊
下で長く抱き合っていました。
僕のほうから義母の肩に手を置きゆっくりと彼女を離すと、
「ごめんなさい、はしたなくて…」
といって彼女は白い頬を赤く染め、顔をまた僕の胸に埋め込んできました。
「僕のことを気にしてる?」
優しい声でそういってやると、
「あなたのことが…どうしょうもなく気になるの。私っていつからこんなはした
ない女になってしまったのかしら?自分でも自分が嫌いになってる」
「心配性なんだね、亜紀子は…。何もないから」
「年齢も立場もわきまえず、こんなことで嫉妬してしまうなんて…ごめんなさい」
「愛しているのは亜紀子だけだよ…」
そういって僕は義母の背中に廻した手に少し力を込めて、彼女の小柄な身体を優し
く抱き締めてやりました。
玄関口で靴を履きかけている僕に、義母が唐突に片手を差し出してきて、
「はい、これ…」
といって何かを渡してくれました。
小さく折り畳まれた何枚かの一万円札でした。
「日曜日のこんな時間に、思い詰めてあなたを頼ってきた奥様だから、何かあった
時に心配でしょ?」
僕に強引にそれを渡そうとする義母の顔は、もういつもの清廉とした表情に戻って
いました。
「ありがとう…」
僕は素直に義母の好意を受け取り、玄関に出て車に乗り込みました。
僕の胸の中は、ずっと小さな針が刺さったままのように、傷みはずっと消えること
はありませんでした。
家を出て広い通りに出ると、コンビニの駐車場に僕は車を停めました。
三時半過ぎという時刻を確認してから、携帯を手に取り先ほどの電話で聞いたばか
りの上本佐知子の番号をゆっくりと押しました。
まるで僕からの連絡を待ちかねていたように、一度目のコールが鳴り終わるまでに、
相手はすぐに出ました。
「もしもし、佐知子です」
息せき切ったような彼女の声が、僕の耳に響いてきました。
「すみません。…私、どうかしてて。あなたのご迷惑も何も考えず…」
「もう家を出ましたから、どうか気になさらないでください。今からだと少し早く
着くかも知れませんが、取り敢えず甲府までの切符買って、ホームで待ってます」
こちらからいうだけのことをいって、相手はまだ何かを話したそうな幹事でしたが、
僕のほうから一方的に携帯を切りました。
その後で由美に、詳しい事情は省略して、急な仕事で山梨まで出かけるとメールを
打ちました。
義母にしてもそうですが、同時に由美に対しても、僕は何か疚しいことだらけの人
間のような気がはっきりとしているのがわかりました。
駅の立体駐車場に置いて、僕は中央線の接続する駅に向かいました。
駅までの道中と駅へ着いてからの間、僕は上本佐知子との出会いの時からを、日め
くりの暦をゆっくりとめくるように思い起こしていました。
上本佐知子との関わりは、去年の十二月の初旬頃が最初でした。
知り合ったのは、十二月にしてはひどく雨の降る午後でした。
仕事でライトバンに乗り一人で出かけていた時、市街地の路地道で車のタイヤがバ
ーストするという災難に遭ってしまったのです。
雨は車のワイパーを常時可動にしなければならないほどの降り方だったので、僕は
車をできるだけ道路の端に停め、しばらくは雨が小止みになるのを待ちました。
場所は住宅街の路地だったので、近くにガソリンスタンドも見当たりませんでした。
職場に戻らなければならない刻限が迫ってきても、雨は一向に止む気配がないので、
僕は仕方なく車の外に出て、降りしきる雨に濡れながらタイヤ交換作業に取りかかり
ました。
工具とスペアタイヤを取り出して、バーストした後部車輪の前に屈みながら、ジャ
ッキのレバーを急いで廻していました。
雨は止む気配なく降り続け、僕の着ていた現場用のジャンパーからズボンまでを、
瞬く間にびしょ濡れにしてきていました。
修理作業に没頭する僕の頭や顔にも、容赦なく降り続けていた雨が、一瞬止んだよ
うな気配を感じ、ふと頭を上げると、背後から誰かが傘を差し出してくれていること
に気づきました。
屈んでいた僕の頭の上に、真っ赤な傘を差し出してくれていたのは、ダークグリー
ンのコートに身を包んだ、長い髪をした三十代くらいの女性でした。
「あ、あぁ、す、すみません」
そういって慌てて立ち上がろうとした僕に、
「雨の中大変ですわね。かまわないですから先に済ませちゃってください」
と明るい笑顔でそういってくれたのが、上本佐知子なのでした。
僕は事態が事態なので相手の顔もよく見ないまま好意に甘えて、バースト修理作業に
没頭しました。
途中で僕が身体を動かせるたびに彼女も付いてくれたりして、どうにかタイヤの交換
を終えることができたので、改めて僕は彼女にお礼をいおうとしたら、
「まぁ、ひどいずぶ濡れですこと。それに手も。このままでは風邪を引いてしまいま
すわ。…あの、よろしかったら、家に寄ってお顔や服を拭いていってください。手も汚
れてるみたいだし…」
満面に心配げな表情を浮かべて、彼女は優しく気遣いの言葉をいってくれたのでした。
見知らぬ自分に傘を差し出してくれただけでもありがたかったのに、初対面のしかも
女性に、これ以上の世話をかけるのはとても気が引けて、固辞した僕を、
「家っていってもアパートなんですけど、そこなんですよ」
そういって彼女が指を指したのは、車を停めた道路の反対側にある青い瓦屋根の二階
建てのアパートでした。
まだ雨の降る中で、大丈夫ですからと何度も固辞する僕を、彼女は仕舞いには腕を引
っ張り込むようにして、結局は彼女のアパートに連れ込まれて、広くはない玄関口で何
枚ものタオルを出してくれたり、温かいお茶までご馳走になり、僕はただひたすら恐縮
するばかりの時間を過ごしたのでした。
玄関口に腰を下ろして温かいお茶を飲ませてもらっている時、彼女はこちらから聞き
もしないのに、小学校五年になる娘との二人暮らしだと、自分のことは話してきました
が、僕のほうへの詮索は何もしてはきませんでした。
名刺を出して名前を名乗って、僕は玄関口で頭を何度も下げ、精一杯の謝辞をいって
彼女の家を出ました。
上本佐知子の家の狭い玄関口で、濡れた頭や顔を拭き、衣服もタオルで拭かせてもら
ったりしたのですが、雨の雫はもう僕の下着にまで染み込んでいて、帰りの車の中では
冷たい感じはありましたが、見知らぬ初対面の、しかも女性の人からの親切なもてなし
を受けた僕の心の中は、言葉にいい表せないほどのありがたみと仄かな嬉しさで、温々
とした気分で一杯になっていました。
同時にもう一つ心に大きく残ったのは、玄関口でコートを脱いで甲斐甲斐しい気遣い
を見せてくれた時の彼女の顔を見て、僕はそこはかとない清楚さの滲み出た美しさで、
僕はタオルで頭を拭いていた手が一瞬、止まってしまったくらいでした。
化粧っ気のないほとんど素顔に近い色白の顔立ちでしたが、まるでどこかの外国人の
血が入っているのかと思うくらいに目鼻立ちがくっきりとしていて、切れ長の目の上の
睫毛も長く、顔の部分部分の彫りや陰影がはっきりとしている美人でした。
痩身で背丈もそこそこに高く、細くくびれた腰の位置も高そうで、フレアスカートを
穿いていても足がすらりと長そうだというのがわかりました。
何年か前のNHKの朝のドラマで、著名な漫画家の女房役で出ていた松下奈緒とかい
う女優に似ているような雰囲気で、上本佐知子と丁寧に名乗ってくれた声にも、どこか
物静かそうな気品の良さが感じられました。
それから三日ほどの夕刻頃に、僕はお礼の粗品を持って、改めて彼女の家を訪問しま
した。
見ず知らずの人に、予期していない温かい親切や気遣いを受けたものとしての、当然
の行為でしたが、凡人でしかないの僕の心の片隅には、もう一度彼女の気品のある笑顔
に接してみたいという浅薄な思いがあったのも事実でした。
すっかりと日の暮れた薄闇の中、僕は彼女の住むアパートの近くの空き地に車を停め
て降りようとした時、ふと頭の中にかすかな不安めいたものが過ぎりました。
この前、僕から聞きもしなかったのに、小学生の娘との二人暮らしとぽつりと呟くよ
うにいっていたのを、僕は浮ついた気持ちで真に受けて、深い思慮もなく今から訪ねよ
うとしていることに気づき、一度開けた車のドアをまた閉め直して座席に座り込みまし
た。
どうして娘と二人だけの生活なのか?
夫はどうしいないのか?
何もわからないまま、上本佐知子の清楚な綺麗さに惹かれたように、女性の住む家を
軽々に訪問していいのだろうか?
そういう疑問が僕の心の中に、唐突に湧いてきていました。
車の中で少しの間、僕は逡巡しましたが、持ち前の楽天的な性格が間もなく頭をもた
げ、お礼だけでもいって早々に退散すればと心に決めて、車のドアを開けたのでした。
アパートの一階の端のドアの前に立ち、窓の灯りが点いているのを確認してから、チ
ャイムボタンを押しました。
「はぁい」
中のほうから聞き覚えのある声で返事があり、ドアが開いて目を合わせると、上本佐
知子のほうが驚いたように口に手を当て、
「まぁっ…」
と短く声を出し、すぐに白い歯を見せてくれました。
先日のお礼にお邪魔したことを告げ、手に持っていた紙袋を差し出し、僕はそのまま
退散しようと思ったのですが、
「どうぞ、中へお入りください。あ、娘と二人暮らしなんです。狭いところですけど
どうぞ」
とまた強く招き入れられ、取り敢えず玄関口まで入ることにしました。
そこでまた何度かのやり取りがあり、優柔不断な性格丸出しで、僕は結局、居間まで
上がってしまっていました。
そこで初めて上本佐知子の一人娘の里奈ちゃんとも顔を合わせました。
母親似の顔で髪の毛も長く伸ばしていて、僕にも丁寧に挨拶してくれた可愛い子でし
た。
母娘二人だけの居宅に、強引な招きを受けたとはいえ図々しく上がり込んでしまった
申し訳なさに、まるで借りてきた猫のように畏まって正座していた僕に、
「どうぞ、楽にしてくださいね。…ごめんなさい、何か私のほうが強引に引き込んじ
ゃったみたいで」
と彼女は優しげな口調で気遣い、明るい笑みを浮かべながら、いい香りの湯気の立つ
コーヒーを前に出してくれました。
ここを訪ねる少し前の車の中での、僕の逡巡はあっけないほどの脆さで雲散霧消して
いました。
いつになく緊張感が溶けないままなのは、多分、間近で見る彼女の清潔感の溢れた美
しさのせいかも知れないと思いながら、僕は落ち着きなく目を泳がせていました。
母娘二人だけの生活らしく小奇麗に整頓されている室の雰囲気と、女性の匂いしかし
ない感じの空気にも、僕は少し戸惑い、狼狽えていたようです。
「里奈ちゃん、宿題早く済ませなさいね」
僕の真横でテレビのアニメを見入っていた娘に声をかけると、はぁい、という可愛い
声を出して素直に居間を出て行きました。
お礼に来ただけのつもりが、家の中にまで通され、間近での彼女との対面に、僕は恥
ずかしいくらいに動揺していました。
最初の対面の時にも、何気に彼女の清潔そうな綺麗さが目に焼きついた僕でしたが、
明るい照明の下で座卓を挟んで向かい合うと、この前と違って薄く化粧して目立たない
感じに引いているルージュや黒い大きな瞳が、僕の目に強烈に迫ってきているようで、
胸の中で血が異様に騒ぎ出している気分でした。
彼女が淹れてくれたコーヒーの味もよくわからないくらいに、僕は緊張していたよう
で、
「そんなに固くならないでください。私がお招きしたようなものですから…」
とまた綺麗な歯並びを見せ、優しげな笑みを浮かべて声をかけてきました。
薄いクリーム色のタートルネックのセーター上に、ざっくりとした薄いチャコールの
カーディガンを着て、そのカーディガンと同系色で、白の花柄模様の入ったフレアスカ
ートをさりげなく上品に着こなした彼女に、正直、僕はひどく圧倒されていたのです。
「あ、あの…」
まだ動揺と戸惑いが修復できていないまま、僕は彼女に何かを尋ねようとしていまし
た。
「主人は…いないんです」
僕のどぎまぎとした問いかけを、彼女はどう解釈したのか、思いも寄らない言葉を僕
に告げてきました。
「主人は…今、失踪というか、行方不明なんです。もう、四年になります…」
ほとんどまだお互いに何も知らない同士の間では、ありえないことを彼女は、それほ
どに哀しむような表情も見せることなく、淡々とした口調で続けてきました。
「は、はぁ…」
とだけ間の抜けたような返事しかできない僕でした。
「あら、ごめんなさい。まだ会って二度目の人に変なこといってしまって」
「い、いえ…」
「ごめんなさい。私、あなたが緊張しているのが、私の夫が今にも帰ってくると不安
な気持ちになっているんじゃないかと思って…。私の早トチリですわね」
そういって彼女は涼やかな口元に手を当て、少し気恥ずかしそうに声を出して笑って
きました。
間抜けな僕は、彼女の屈託のなさげな笑いに追随するように苦笑いをするだけでした。
上本佐知子の飾り気のない、まるで僕を異性として見ていないような、明るい笑顔と
自然な振る舞いに乗せられ、どうにか会話が成り立つようになってきていました。
「…そういえばこの前ご名刺いただいて少し驚きました。公務員でいらっしゃるって…
実は、私の父も公務員だったんですよ」
「ああ、そうなんですか」
「田舎の役場に勤務していたんですけどね。五十の半ばくらいに癌で死んじゃったんで
すけどね…あなたはもう何年に?」
「大学出てからですから、十一年ですかね?」
「じゃ、お歳は三十二、三?…まぁ、お若いんですのね。もう少し、私に近いと思って
いました。私と一回り違います」
「あぁ、そうなんですか。もっとお若いと思ってました。あ、すみません、こんなこと
いって」
実際に僕は彼女をまだ三十代後半くらいとばかりに思っていたので、正直な気持ちを告
げました。
「あら、そんなに若く見ていただいたら、コーヒーだけでは済みませんわね、どうしま
しょう?」
「もう、充分です。美味しいコーヒーでした」
「あの、お子様は?」
彼女の目がそれとなく、僕の左手の薬指の指輪に向けられたのがわかりました。
「結婚して二年なんですけど、まだです」
「そうですか。まだお若いですものね。私も娘ができたのは遅かったんですよ」
「こればかりは、どうも」
会話がどうにか打ち解け出した頃、僕は不思議に思っていたことを正直に、彼女に尋ね
ました。
この前の初対面の雨の日と今日の、まだ二回しか会っていない自分をどうしてこんなに
も易々と、女だけの住まいの中に招き入れたのか?と聞いたのです。
外見的に見ても、落ち着きのある話しぶりから想像しても、賢そうなのが一目瞭然の彼
女が、こうも安易に僕のような凡人を家の中に招き入れたことが、自分なりに少し理解で
きないでいました。
彼女から返ってきた答えは、意外な理由に由るものでした。
あの日、雨の激しく降る中でずぶ濡れになりながら、タイヤのバースト修理をしていた
僕を偶然に見て、彼女は自分の幼い頃の記憶を思い出したというのです。
上本佐知子がまだ小学生の頃に、父親と何かの用事で雨の中を車で走っていたことがあ
って、そこでタイヤのバースト事故に遭遇してしまい、僕と同じようにひどく雨の降る中
で、一生懸命タイヤ交換をする父親に、幼い彼女がずっと傘を差しかけてやったことがあ
り、あの時雨に濡れそぼった僕の背中が、当時の父親にそっくりに見えたというのです。
その時の父親の嬉しそうな笑顔が、今でも忘れられずにいるとのことでした。
さらに彼女がいうには、そういう記憶が頭にあってのことだと思いますが、僕の風貌や
話し方までが父親そっくりだったので、当時の思い出に浸りたくて、つい迷惑を顧みずに
僕を誘ったのだということでした。
「…随分、はしたない女だと思うでしょ?」
そういって彼女は申し訳なさそうに、僕に頭を下げてきたので、
「とんでもないです。あなたのお父さんとそっくりだなんて、むしろ光栄ですよ。…で
も、実際の僕はそれほど立派な男じゃないですけどね…」
謙遜でも卑下でもなく、正直な言葉を僕は彼女に返しました。
その時ふと、義母と妻の由美と加奈子の顔が、重なり合うように僕の脳裏を、一瞬過ぎ
りました。
そこで自分がついつい上本佐知子の好意に甘えて長居していることに気づき、
「あぁ、つい甘えてしまって長居をしてしまいました。それじゃ、この辺で。ほんとに
どうもありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。私の勝手な思いに付き合わせてしまったようで、申し訳なかった
です。長くお引止めしてしまってすみませんでした」
「また、何かお困りのことでもありましたら、こんな僕でよかったらご連絡ください。
名刺に携帯番号入れてますので」
「あら、それじゃあ、私も…」
「いえ、いいです、それは。僕のほうからお電話させてもらうことはありませんので」
「でも…」
「あなたは女性で、僕は男です。何か間違いがあってもいけませんから。では、これ
で失礼します」
不似合いな体裁を繕った自分の言葉に、僕は内心、少し残念な思いを残しながら、そ
れでも綺麗な人と話せたという、少年のような淡い喜びを胸に充満させて帰路についた
のでした。
上本佐知子とは、この二度の対面だけで終わるものだと僕は思っていましたが、それ
から一週間ほどが過ぎた、ある日の午後に、僕の携帯に非通知設定の着信があり出ると、
思いも寄らず彼女からの連絡でした。
その声が最初からまるで別人のように打ちひしがれているのに気づき、
「もしもし、上本さん?どうされました?」
そう聞いてもしばらく返答もないままでしたが、少し時間を置いてから、もう一度聞
き直すと、驚きの出来事を知らされ、僕も一瞬、言葉を失ったくらいでした。
失踪して四年もの間、行方不明になっていた彼女の夫が、数日前に交通事故に遭って
死亡していたというのです。
それも遠い山梨県の甲府市内の市道を、酒に寄ってふらつきながら歩いているところ
を、長距離の大型トラックに跳ねられ即死したということです。
所持していた免許証で身元が判明し、彼女が甲府署まで亡骸を引き取りに行き、つい
一昨日に、夫を跳ねた運送会社の人間以外、誰も来ることのない密葬を済ませたところ
だと、今にも消え入りそうなくらいの弱々しげな涙声で話してきました。
そんな過酷な出来事があったことを、彼女は誰にも話すこともできず、遠いところま
で四年もの間、何の音沙汰もなかった夫の亡骸を引き取り行き、寂しい密葬まで済ませ
た彼女の精神力の強さに、僕は返す言葉もありませんでしたが、
「どうして、僕に早く連絡くれなかったんです?」
と逆に気持ちとは裏腹に、責めるような詰問口調で、愚かにも僕はついいってしまい
ました。
電話の向こうですすり泣く彼女に、僕はすぐに詫びの言葉をいって、
「今夜、お宅にお邪魔します」
と毅然とした声でいって、取り敢えず電話を切りました。
それから仕事の定時まで、何をしていたのかわからないくらいに気持ちを動揺させて
いた僕ですが、運の悪いことに職場の上司から、急な残業を命じられたため、彼女のア
パートに向かったのは、午後八時半過ぎでした。
義母と由美には、仕事で遅くなる、食事はいらないとだけ簡単にメールしておいてか
ら、車のアクセルをいつも以上に強く踏みつけていました。
上本佐知子の住むアパートのチャイムボタンを押すと応答はなく、しばらくして中の
ほうからドアが静かに開き、黒の喪服姿の彼女が虚ろな眼差しと、蒼白な顔面を露わに
して出てきました。
僕の顔を見るなり、彼女の蒼白な顔は瞬く間に哀しげに崩れ、切れ長の目から涙が溢
れ出てきていました。
そのまま前に倒れ込むように身体を崩してきた彼女を、僕は両手で支えるように抱き
止め、そのまま中に入り込みました。
居間までどうにか連れ込むと、彼女はまた力なく床に崩れ落ち、手を支えて座ってい
るのがやっとのようでした。
いいようのない悲嘆に身を崩した上本佐知子に、僕のほうからすぐにかける言葉も見
つからず、ふと壁際の箪笥の上に目をやると、黒い小さな額縁が立てられているのが見
えました。
額縁の中には人の写真が飾られていました。
亡き夫の遺影だとすぐにわかりました。
「上本さん…」
身を崩すように床に座り込んだ彼女の前で、かける言葉も失くして立ち竦んでいた僕
は、どうにか気持ちを鎮め、ゆっくりと屈み込みました。
長い髪を束ねてアップにした、彼女の喪服の襟から、白いうなじが哀しげに覗き見え
ていました。
顔を俯けたままの彼女は、まだすすり泣いているようでしたが、
「ご、ごめんなさい…突然、嫌なお電話差し上げて」
と喉の奥から搾り出すような声で、詫びの言葉をいってきました。
「い、いや、いいんです。僕のほうこそ、こんな大変な時にあなたを詰るようなこと
をいってしまって、すみませんでした」
「いえ…そういっていただけて嬉しかったんです、私」
「えっ?」
「誰にも相談もできなくて…あなたが私を叱ってくれたのが、本当に胸に沁みました」
「お勤め先の人たちなんかは?」
「…実は勤め先には、何もお話してないんです。四年も音沙汰のなかった人ですから
…」
「そうですか…」
「それで思い余って…堪え切れなくなってしまって、まだ見ず知らずといってもいい
あなたに連絡してしまいました」
両手をカーペットについたまま、彼女はうちひしがれた顔を深く下げていってきまし
た。
「娘さんは?」
「ええ、今日は一緒に近くのお寺へ行ったり、私に代わって買い物してくれたりして
疲れたらしく、早くにお風呂に入ってもう休みました」
「そうですか。賢いお嬢さんでよかったですね」
「ええ、あの子なりにも父親のことは、それなりに気にはしていたようで、亡くなっ
たと知ると大粒の涙を流したりして、大変だったと思います」
ようやく顔を上げ、初めて僕の目を見た彼女は、手で何度も目の周りを拭いながら、
「ごめんなさい、こんな情けない顔で…」
と恥じらいの表情を深くして、僕からすぐに目を逸らしていきました。
それから僕は彼女から、交通事故の状況を一頻り聞いたり、事故後の加害者側の会社
の対応を尋ねたりも当然したのですが、僕が上本佐知子の家を退居したのは日付の変わ
る零時過ぎのことでした…。
続く
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