建国記念日の前日の午後から有給休暇を出していた僕は、朝の
出勤時に大きな旅行用のバッグを車に積み込みました。
その朝の出がけの時、由美は早くに出かけていたのですが、玄
関口まで見送りにきた義母に対して、僕は一つの失態というか、
いわなくていいことをつい口走ってしまいました。
「あら、まぁ、随分と大きなバッグなのね」
と他意なく声がけしてきた義母に、
「ああ、友人の病気見舞いの前に、そいつと登った山の御守り
を持っていってやろうと思ってね、ちょっとした登山服も入って
いるんで…」
と義母に応答したすぐ後に、僕は心の中で、しまった、と舌打
ちしていました。
義母には結婚式にも出席してくれた大学の登山サークル仲間の
病気見舞いに行く、とだけしか話してはありませんでした。
しかしその義母は、僕の本来の目的である、野村加奈子が新潟
にいるということを知っていて、そしてつい先日に、そのことで
僕に遠回しながら釘を刺してきていたのでした。
「あら、そうなの…」
とだけいって、義母はその後見送りの言葉を僕の背中にかけて
きたのですが、車に乗り込んだ時、僕は自分の迂闊さに思わず目
を瞑りました。
こういう時の女の勘の鋭さには、僕もこれまで何度か肝を冷や
してきていたのでした。
浮かない気持ちを少し引きずりながら午前中の勤務を終えた僕
は、車を駅近くにある有料の立体駐車場まで走らせ、狭い車内で
服の着替えを済ませました。
スーツを脱ぎネクタイを外して、Yシャツの上に丸首のセーター
を着て、その上に義母からのプレゼントのブルゾンとダウンジャケ
ットを着込み、ズボンと靴もそれ用のものと履き替えました。
この立体駐車場の一泊の駐車料金が二千円程度だということは、
事前に調査済みでした。
私鉄電車を乗り継ぎ上越新幹線に乗ってまだ一時間も走らないの
に、もう車窓の外は真っ白な雪景色でした。
平日ということもあってか、新幹線の車内は意外にも閑散として
いて、僕の座席の周辺には老夫婦らしいカップルが一組だけでした。
車内販売で買ったコーヒーを飲み終えてから、僕はポケットから
携帯を取り出し、野村加奈子のメールアドレスを探しました。
その時にまた、今朝方の義母との迂闊極まりないやり取りが頭の
中を過ぎりましたが、それを振り切って僕は野村加奈子へのメール
打信に没頭しました。
一方的に僕のほうから絶縁するように別れてから、加奈子への最
初のメールでした。
(突然のメールでごめんね。君が新潟にいることがわかったのは最
近のことです。その時すぐにもメールをしようと思ったけど、僕のほ
うに君に対する申し訳なさとか色々あって、つい躊躇ってしまってい
ました。元気にしていますか?今、僕は上越新幹線の車中です。どこを
今走っているのかわからないけど、窓の外は一面の雪景色です。君の
住んでいるところも雪深い町なのだろうな、と車窓の外を見ながら、君
の顔を思い浮かべています。君に会いたくての旅です。新潟から信越線
で新津まで行き、羽越線で水原、そこからはバスなのかな?今日は五頭
温泉郷のどこかの宿に泊まろうかと考えていますが、行き当たりばった
りで旅館の予約もまだしていません。新潟駅に着いたらどこかを探そう
と思っています。君の都合も何も考えず、身勝手な思いつき旅なので、
もし会えなかったら、それはこれまでの僕の君に対する不徳の結果と受
け止めて、諦めて戻るか、新潟のホテルにでも泊まります。僕みたいな
男と知り合ったばかりに、君の人生を大きく変えてしまったことは、今
もずっと申し訳なく思っています。もし、このまま会えないとしたら、
遅きに失しましたが、このメールを最後のお詫びの言葉とさせていただ
きます。 浩二)
長いメールを打ち終わった時は、列車は長いトンネルの中でした。
上越新幹線に乗るのは多分これが初めてでしたが、中央アルプスを縦
横断するだけあって、トンネルが随分と多いような気がしました。
加奈子にメールを打って間もなく、彼女からの返信がありました。
もしかしたらその返信さえもないかも知れないと、多少不安な気持ち
もあった僕は、恐る恐るの手つきでメールを開きました。
(驚きました!!驚き過ぎて涙がすぐに出てきて、浩二さんからのメール
が読めなくなってしまうほどでした。何からどうお話したらいいのか、
わからないくらいに興奮しています。でも、それ以上に嬉しさと喜びが
私の胸の中に一杯です。水原駅に着くのは何時ですか?きっと②私がお
迎えに行きます!それと五頭温泉のほうも、私が探して予約しておきます。
後になってしまいましたが、あなたの心配をよそに、私は意外と元気で
すよ。連絡待ってます。 加奈子)
僕のことを多少は恨んでいるかも知れないと、少し不安な気持ちもあっ
たのですが、加奈子からの文面は純真に嬉々とした内容で、その思いを若
い女の子らしく、笑顔と可愛いハートマークなどの絵文字を随所に散らば
せた返信でした。
丁度その時、検札の車掌が来たので、羽越線の水原駅への到着時刻を尋
ね、それをまた加奈子にメール送信すると、少しの間があってから返信が
届きました。
(わかりました。駅の表で待ってます。今日は朝からそんな予感してたの
で、あなたに見つかりやすい真っ赤なダウンジャケットを着てます…〔ウ
ソ〕それから温泉宿も、あなたの名前でバッチリ予約できました。こちら
の雪見たらあなたは驚くかも知れませんが、今日はここ数日では雪も一番
少ないくらいです。…あ、それから旅館は、あなたと他一名で予約しまし
た。お気をつけて。 加奈子)
加奈子からの返信を読み終えて、何もかもがうまく行き過ぎているよう
な気持ちになっていました。
加奈子からの何の屈託もなく、身勝手な僕からの突然のメールを心底か
ら喜んでくれているのにとても嬉しく思い、胸の中につかえていた何かが
消え去ったようで安堵した思いになりました。
おまけにまだ決めていなかった宿の予約まで、彼女が迅速に手配してく
れたのは、さすがの僕も想定外のことでした。
列車の中で加奈子にメールをした時には、正直なところ、彼女からの返
信があるかどうかも、僕には自信が持てていませんでした。
義母の足の怪我での入院という妙なきっかけで知り合い、図らずもなさ
ぬ関係を持つことになってしまった加奈子でしたが、その彼女の周辺が不
穏なざわつきを見せてきて、余計な火の粉を被りたくなかった僕は身勝手
な自己保身に走り、一方的に彼女に別れを宣告し、今後の連絡も一切しな
いようにと非情な通告をして、それきりなしの礫状態にした僕でした。
二十五歳というまだうら若い野村加奈子と、妻ある僕との関係が露見し
たら、下手すると義母も含めた家族全員まで巻き込む修羅場になっても仕
方のない状況ともいえたのに、彼女は僕からのそれこそ身勝手極まりない
一方的な通告に、何一つ逆らうことなく忠実に従い、その余波といえなく
もない出来事で、都会を捨てひっそりと北国に自ら身を潜めたのでした。
そのこと事態も突き詰めれば、やもすると僅かな間でも、自分が愛した
男である僕という人間の安寧を願っての、彼女なりの行動だったのかも知
れないのでした。
加奈子へのそうした悔恨の思いが、こんな身勝手で自己保身しかなかっ
た僕の心の中に、ずっと引っ掛かっていたのが、家族へは友人の病気見舞
いと心苦しく偽っての、この北国への旅の最たる理由でした。
加奈子のメールの、文面の最後の意味の解釈についての返信応答は、僕
はしませんでした。
ぼくのような気ままでだらしない男でも、一人旅のモードに入ると、何
か妙なやるせなさのようなものが勝手に胸の中に湧いてきて、あれこれと
我が身の身辺のことを思い巡らされたりするようです。
といっても凡人の僕に郷愁的な旅情に思いを馳せるといった高尚な思考
はなく、考えるのは相も変わらず自分の自分の周囲にいる女性のことばか
りでした。
義母、野村加奈子、由美と、何故かもう一人の女性のことを思い浮かべ
ていました。
もう一人の女性というのは、最近ふとしたことで知り合ったばかりの女
性ですが、彼女のことは後日にまた記述するとして、僕の今の胸の中の占
有率は、正直にいうと、名前を書いた順の通りのような気がします。
しかしこの順位で、彼女たち三人への愛情の度合いを分け隔てていると
いうのでありません。
僕にそんな器用な差配ができるはずはありませんでした。
身勝手で都合の良過ぎる解釈であるとしても、彼女たち三人への僕の思
いは押しなべて平等とはいい切れませんが、断言していえるのは不変なも
のです。
車窓の雪景色からトンネルの暗い中に入ると、窓が鏡のようになり、自
分の顔が映ったかと思うと、時折、彼女たち三人の顔がスライド写真のよ
うに浮かんでは消え、消えては浮かびしていました。
この上越新幹線は終着駅に近づくほどトンネルが多くなっているようで、
窓は鏡の時がほとんどだったような気がしました。
その分、鏡に浮かび出てくる女性たち三人へのあらぬ妄想が頻繁になっ
たのは当然で、特に今から会うはずの野村加奈子への妄想は、妙な懐かし
さもあり、彼女の愛くるしい顔だけでなく、丸く張りのある乳房や乳首ま
でが生々しく浮かんだり消えたりしていました。
列車が新潟駅に着き、バッグを抱えてホームに降り立った僕の頬に、北
国の想像していた以上の痛いような冷気が当たってきました。
首と肩を大きく竦めながら、在来線のホームまで歩くと、そこに停車し
ていた電車が新津まで行くとのことなので、僕はそのまま飛び乗りました。
二十分ほどで新津駅に着き、そこからまた乗換えで、水原という駅まで
は十分ほどでした。
新潟からの約三十分ほどの電車の旅は、人里から奥深い山間部に向かっ
ていると実感させられるような車窓の雪景色でした。
二つほどしかない改札口のすぐ前に、白い毛糸の帽子を被り、真っ赤な
ダウンジャケットを着た野村加奈子が、喜色満面の笑顔で僕を迎えてくれ
ました。
「浩二さんっ、ようこそっ」
周囲にいた数人の観光客たちが振り向くほどの大きな声を上げて、加奈
子はそのまま僕にぶつかるような勢いで抱きついてきました。
「ほんと、ほんとに嬉しいっ、夢みたい」
加奈子の運転する軽乗用車の中でも、彼女の明る過ぎるくらいの笑みは
絶えることはなくて、真っ白な雪道をそれほど苦にすることもなく、遠く
に連なる山の峰に向かっていました。
駅の改札口で今にも泣き出しそうになるくらいの、満面の笑顔で迎えて
くれた加奈子を見て、そして今、車のハンドルを握り締めながら、屈託の
何一つない、まるで女高生のような笑顔を見ただけで、僕はもうここまで
来た目的の大半を果たしたような気分になっていました。
車が信号で止まった時、僕が声をかけようとするのと、加奈子が白い歯
を見せて何かいおうとしたのが同時になりました。
目で合図して加奈子を促すと、
「私、ほんとに元気にやってますから」
と快活な声でいって、可愛く明るい笑顔を向けてきました。
まさか加奈子が、僕が彼女に対しての贖罪的な気持ちもあって、ここまで
来たということには気づいていないはずでしたが、そんな思いを払拭させる
くらいに、加奈子は僕の唐突な来訪を純真に喜んでくれているのがしっかり
とわかる笑顔を向けてきていました。
「田舎、次郎丸っていったかな?お祖母さんの家って、君のお母さんの?」
「ええ、私の母の実家なんです。何もないほんとの田舎…」
「それで…君は今何してるの?」
「阿賀野市内の小さな内科医院に、ついこの間から働きに出ています」
「ああ、じゃ、また看護師として働いているんだ?…それはよかった」
僕のほうに加奈子への贖罪的な思いが深くあったのもあり、そこまで彼女
がしっかりと立ち直っていることに、僕も本心から安堵の思いを強くしまし
た。
加奈子は嬉々とした表情を絶やすことなく、今夜僕が泊まる五頭温泉郷の
宿に車を向かわせていました。
そしてメールでもいっていたように、加奈子も僕と同泊するとのことでし
た。
因縁のある若い男と女が同じ室で枕を共にすれば、結果は火を見るより明
らかでした。
加奈子とのそういう邪念が、ここへ来るまでの僕の気持ちの中に、卑しく
もあったのは否定できないことです。
新幹線のトンネルを走る車窓に、加奈子の愛くるしい顔と、固いゴム鞠の
ような弾力に富んだ、若く滑らかな乳房を、愚かにも僕は暗い窓の向こうに
何度も思い描いたのは疑いようのない事実でした。
ここでこの流れのまま加奈子と一緒に泊まるということは、通俗的な言葉
でいうと、それこそ焼けぼっくいに火を注ぐことになることは、彼女の喜色
満面の笑顔を見れば明々白々でした。
愚かしく浅薄な僕はことここに来て、加奈子を自惚れ穿った憐憫だけの思
いで訪ねたことを後悔し始めていました。
「どうかしたんですか?…」
目敏く僕の表情の変化に気づいた加奈子が、何度目かの信号待ちの時、不
安そうな顔を向けてきました。
「あ、いや、何でもないよ」
慌てたような笑顔を見せて僕はその場を繕い、フロントガラスに近づいて
きている五頭山連峰に、力のない視線を向けました。
自分の正直な思いを加奈子に打ち明けたのは、彼女が予約してくれた旅館
の駐車場に着いた時でした。
木造瓦葺きの二階建てのこじんまりとした和風旅館のようで、外観はまだ
最近に改装されたばかりのような、新しく明るい木目調の板壁が貼られてい
て、室数もそれほど多くはなさそうな建物でした。
「君の元気そうな顔が見れただけで、僕はもう充分だ。でも折角だからこ
こで美味しいもの食べて楽しく話そう。…でも、一緒には泊まらないように
しよう」
と僕から話を切り出すと、加奈子はもう話の途中から、信じられないとい
う驚きの表情になり、愛くるしい顔を見る間に暗く蒼白にしていました。
「どうして、そんなことをいうのですか?」
そういって僕に向けてきた加奈子の頬には、もう涙が流れ出ていて、蒼白
な頬を伝い落ちていました。
「いや、本当に加奈子がどうしているのかと、僕はずっと気にしてた。毎
日慣れないところで苦労していないのか、寂しい思いでいたら本当に申し訳
ないと思って…」
「そんな…それなら何で…あの頃に一度でも連絡してくれなかったんです
か?」
僕の言葉を途中で遮るようにして、加奈子は溢れ出る涙を拭おうともせず、
詰問口調でいってきました。
「私…あの頃、毎日ずっと…あなたからの電話かメールを待っていたのに
…」
加奈子は僕から顔を逸らしフロントガラスのほうに目を向け、哀しげな横
顔を見せていました。
新幹線に乗っている時に届いた加奈子からの思わせぶりなメールを受けた
時に、もっと僕はしっかりと対応して、今いったようなことをきちんと彼女
に文面でもいいから伝えるべきだったという後悔も、その時の僕の頭の中に
ありました。
加奈子のこれから先のことを考えてと僕なりに諭すつもりの言葉でしたが、
「いつも…浩二さんはそう」
と彼女はまた僕との過去を振り返るような哀しい目でいってきて、
「自分の考えばかりを押しつけてきて…」
と言葉を付け足し、涙顔を深く俯けました。
それほど長い交際でもなかったはずでしたが、加奈子は僕の身勝手な本質
を見抜いていました。
加奈子はいつも僕からの、あるかないかの連絡をただ待つだけの日々を過
ごしたのでした。
それもこれも僕の立場を考えてくれての、若い加奈子の健気さに、彼女よ
りも年上の僕のほうがただ甘えていただけなのです。
胸の詰まる思いでしたが、今夜、この旅館で枕を共にしたら、おそらく加
奈子もそうだと思いますが、僕は男として間違いなく彼女の身体を抱いてし
まいます。
それほどには賢くはない男だということは、誰よりも自分自身が一番よく
知っていました。
現に新幹線トンネルの暗い窓に、僕は加奈子の若々しい姿態を幾度も好奇
的に思い浮かべていました。
もし僕が加奈子を抱いたとしたら、下卑たいいかたをすれば、やり得にな
り、後に禍根を残すということはあったとしても、男であればいつかはきっ
と忘れます。
しかし加奈子の場合は違うのがわかっていました。
都会の汚れた渦に巻き込まれ傷を負って、一番言葉の欲しかった僕にも連
絡できないまま、遠い北国へひっそりと逃避して、加奈子はまだ何ヶ月も経
っていないのです。
自惚れでいうのではなく、そうは容易く僕とのことを忘れ去ることは、加
奈子という見かけとはまるで違うひたむきさのある女性には、おそらくでき
ないと思います。
この時、僕の頭の中にある閃光のようなものが走りました。
もしかしたら、あの水原駅での泣き出さんばかりの無上の笑顔で、人目も
憚らず僕に抱きついてきたのも、ここへ来るまでの途中の車中での、屈託の
ない明るく快活な声も、僕との唐突な再会に、本心から喜び浸るというので
はなく、今の境遇も彼女の明るい言葉や嬉しそうな表情とは真逆で、やはり
人にはいえない相当な苦労をしているのではないか、というおよそ凡人の僕
らしからぬそんな深謀遠慮が突如として湧き上がってきていました。
加奈子はこんな僕に、まだ余計な心配をかけたくないという健気さで、明
るく快活に振舞っているのかも知れないと、僕はほぼ確信的にそう思いまし
た。
「加奈子、一緒に泊まろう」
と僕はそれまでの表情を極端なくらいに一変させて、加奈子の真っ赤なダ
ウンジャケットの肩に手を置いて、明るい声でいいました。
僕のその言葉を聞いて、すでに涙でくしゃくしゃになった顔をきょとんと
させて、加奈子が僕を見つめてきました。
「いや、加奈子にずっと申し訳ない気持ちでいたんで、君を抱く資格は僕
にはないと思ってたんだけど…泣かせてごめん。…やっぱり、加奈子のこと
が好きだ」
僕は自分の深謀遠慮の思いは胸の中に呑み込んで、自ら折れるように加奈
子に笑顔を見せて言葉をかけました。
加奈子の涙顔に、あの水原駅で僕に抱きついてきた時と同じ笑顔と、少女
のような愛くるしい表情が忽ちにして戻ってきていました。
これでいいのかな?という思いを悄然と抱きながら、僕も笑顔を絶やすこと
なく、加奈子と寄り添うようにして、その旅館の趣のある入口のドアをゆっ
くりと潜りました…。
続く
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