「浅野さんって…ああ、あの歌の上手い人?…結婚式の時、確か中島みゆき
の糸を唄ってくれた?」
「そう…だったかな」
「覚えてる…私、一番感動したもの。…そう、病気なの」
鏡台の前で風呂上りの顔に化粧水を塗りながら、由美が遠い過去を懐かしむ
ような表情をしているのが、鏡に映っていました。
二月に入って間もないある日の夜の、夫婦の寝室での会話でした。
「で、いつ行くの?」
「うん、大学のサークル仲間と一緒に行くんで、来週の建国記念日の休みに
の予定してるんだけど」
新潟の友人の病気見舞いを前面に出して、僕はつとめてさりげない口調で、
言葉を続けました。
「うん、それで見舞いに行く前に、何年か前に彼と登った新潟の五頭山の麓
で、お守り買って持って行ってやろうということになってね。前日に行って翌
朝早く山に登ってから病院へ行こうかって…」
「あら、泊まってくるの?」
鏡に映る由美の顔が少し意外そうな表情を見せましたが、
「五頭山って、前にあなたがいってた、空海ゆかりの山とかいう…?」
と聞いてきたので、
「まぁ、ご利益があるのかどうか、わかんないけどね」
とベッドで胡坐をかきながら、僕は苦笑混じりに言葉を返しました。
「私も十一日は、市内の中学校の大会があっていないわ。…でも、今頃の新潟
って雪すごいんじゃない?」
「登山なんてしないよ。麓の土産物店かどこかでお守り買うだけだよ」
「ならいいけど…じゃ、前日に出かけるってことね?」
「ああ…」
由美に対しては心苦しい嘘でしたが、野村加奈子に会うことが僕の第一の目的
であるということは、胸の奥深くにしまって、それなりに布石は打ち終えた僕は
そのままベッドの中に潜り込みました。
その話はあくる日の朝には、もう由美の口から義母に伝わっていて、三人揃っ
ての朝食の場で、
「そういえば浩二さん、この頃旅行づいてるわね?」
と冷やかしまじりの由美の明るい言葉に、僕は少しばかり肝を竦めたのでした。
そしてその週の土曜日は、例によって由美は部活出勤で、義母のほうも午前中
に集会所で町内の会合があるとかで、また一人僕だけが留守番ということになり
ました。
義母が会合から戻ったのは十一時過ぎで、ずほらな僕はまだパジャマに厚手の
カーディガン姿で、生欠伸をしながら居間で新聞に目を通している時でした。
「今日はよく冷えてて外は寒かったわ。…お昼は何がいい?」
コートを脱いですぐにダイニングの冷蔵庫の前に立った義母が、僕のほうに声
をかけてきたので、
「さっきトースト食ったばかりで、お腹空いてないから、うどんか何かでいい
けど…」
と彼女のほうを振り返って、僕は言葉を返しました。
「じゃ、温かいおうどんでもするわね。…浩二さんも着替えてきたら?」
僕のずぼらなパジャマ姿を見て義母はそういってから、調理台の前で背中を向
けて忙しなげに動き出しました。
二階に上がり着替えを済ませて降りてくると、義母の手際のよさで、もうテー
ブル上には大きな油揚げと葱の盛られたうどんの丼が、湯気を立てて置かれてい
ました。
「亜紀子、顔色悪そうだけど、何かあった?」
向かい合って温かいうどんを啜っている時に、義母の顔を見てふと感じたこと
を僕は口にしました。
義母は白の襟の大きなブラウスの上に濃紺の丸首のセーター姿の義母の、色白
の顔がいつもより以上に蒼白に近く見え、表情も少し暗めで、いつもなら僕とい
る時に見せる白い歯がほとんど隠れたままになっていました。
義母は僕にいわれて初めて、歯並びの綺麗な白い歯を見せて小さな笑みを浮か
べながら、何でもないと応えましたが、何かに気落ちしているのは確かなようだ
ったので、さらに突っ込んで問い質すと、
「…明日ね、町内の陳情事があって、市会議員の先生のお宅を二軒ほど訪問す
ることになったの。…私と、町内会長の二人で」
「ああ、それで…。でも、町内会長はあれからもう何もないんだろ?」
「何もないわ、でも…」
「嫌なんだ?」
「市会議員の一人の方とは、昼食までご一緒することになってるの」
「美味しいもの食べれるからいいじゃん」
僕が少しふざけた口調でいうと、義母が急に顔をしかめ出して、妙に哀しげな
視線を僕に向けてきました。
「いつだったか、町内会長さんがね。…まだ、私のこと諦めていないっていわ
れたの…少し怖くて」
そういって食べ差しのまま箸を置いて、義母は顔を深く俯けてしまいました。
「大丈夫だよ、亜紀子。何かあったら、僕がどんなことあっても守ってやる」
僕は少し声を大きくして、義母にいいました。
「…それと、もう一つ気になってることが…」
義母は俯けていた蒼白な顔を上げると、少しいい澱むような口調で僕の目を見
ていってきました。
「何?もう一つって…」
「浩二さん、来週新潟に出かけるっていってたわね?」
「えっ?あ、ああ、友人の病気見舞いのこと?」
「…それは、嘘じゃないのだと思うけど…」
「え?どういうこと?」
義母の疑問符的な言葉に、今度は僕のほうが、少し以上に何故か胸の鼓動を昂
まらせていました。
「…あの、野村加奈子さんね、私の教え子だった」
「……………」
「あの子、今新潟の田舎のほうに帰ってるんでしょ?」
「どうして、それを?」
「もう、何日も前だけど…あの子からメールがきてたの。事情があって田舎に
帰りますって…」
「あ、ああ、そうなんだ…」
「病気のお見舞いは本当なんでしょうけど…もしかしたら浩二さんもそれを知
ってて、彼女に会いに行くのじゃないか?って…」
「そうなんだ、あの子、新潟が田舎なんだ…」
そういうのがやっとのくらいに、僕の心は少なからず動揺していました。
「知らなかったよ、全然。…新潟のどこなの?」
慌て込むように僕はうどんのつゆを啜りながら、平静を保つことに心を配りま
した。
「どこだかは教えてはくれなかったけど、随分と雪深い田舎のほうらしいわ」
「そう…申し訳ないけど、彼女のことはあれ以来全然頭になくて」
もう義母に対しても嘘をつき通すしかないと、僕は腹を決めていました。
「…ごめんなさい。余計な邪推しちゃって…だめね、私って」
女の勘の鋭さというものをつくづくと思い知らされた僕でしたが、
「ねぇ、昼から由美の学校に行ってみないか?」
と急に頓狂な声で、僕は義母に精一杯の笑顔を見せて、ふと思いついたことを
口走っていました。
「今度のしない対抗のバレー大会の前に、今日はどこかの学校数校と練習試合
あるっていってたから、二人で観にいってやろうよ」
本当は午後からの時間は、また義母の室で彼女を抱こうという気持ちだったの
ですが、今しがたの会話で僕の愚かな思惑はどこかに消し飛んでしまっていまし
た。
「そ、そうね。一度くらいは行ってやったほうがいいかもね」
僕の唐突な提案に、賢い義母はすぐに気持ちを切り替えて同調してくれました。
「外寒いし体育館も冷えるから、ブルゾンの上に何か着てったほうがいいわよ」
普段通りの顔に戻って義母は、そういって椅子を立ちました。
由美の勤める学校までの間、僕は昼食時の会話の内容には意識的に触れること
なくとりとめのない話をしたのですが、学校の裏門に入る少し前の信号で停止中
の時に、助手席の義母が徐に片方の手袋を外して、僕が膝の上に置いていた手に
唐突に手を重ねてきて、
「ごめんなさい、さっきは余計なこといって…」
と眼鏡の奥の目をか弱げに泳がせて、僕を見つめてきました。
「嫌いにならないでね…」
そういって義母は僕の手を上から強く握り締めてきていました。
「馬鹿だなぁ…」
そう短くいって、僕は急に身を横に乗り出すようにして、義母の唇に唇を重ね
にいきました。
驚いたような顔を僕を見つめる義母に、軽く片目を瞑って僕はアクセルを踏み
込みました…。
続く
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