この作品を文学的な観点からいうとちょっと面白いですね。
ここの書き込みでは大体が透明人間が主体で書かれていますよね。もしくは違う人が主体でも透明人間のセリフなどがあります。
しかしこの作品はやられる女の子が主体であり、それ以外は描かれていないです。それによって、透明人間の仕業のように見えて、実は自分自身の深層心理が行為をおよぼしたとも考えることができるのです。
考えてみれば、満員電車に透明人間が乗ってたとすればそのスペースは不自然です。
彼女は催眠術にでもかかっていたのか、それとも、深層心理の自分が望んでいた行為なのか、そこはわからないです。しかしなかなか深い作品と思えます。
拙い、しかも無駄に長い批評失礼いたしました。
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