◯BL未満
窓の外を走る甲州街道の走行音が、高アルコール度数のチューハイによって痺れた脳を、心地よく揺らしている。
安アパートの六畳一間には、人工的なレモンの香料と、若い男二人の、どこか酸っぱい体臭が混ざり合って澱んでいた。俺、ケンイチ、二十歳。人生の夏休みと謳われる大学生活を謳歌しているはずなのに、俺の右手が味わうのは、もう半年以上も自分の股間の熱ばかりだ。
「あーあ。誰か、……誰かタダでヤラせてくれねーかなぁ」
九パーセントの缶を煽り、空になったそれをくしゃりと握りつぶした。俺の、切実というよりは、もはや腐敗に近い独り言。
「お前、さっきからそればっかだな。ばかじゃねーの。少しは高尚な悩みとか持てよ」
正面で胡坐をかき、同じ缶を優雅に傾けているのは、高校時代のサッカー部からの付き合いである高橋だ。
こいつには一年前から付き合っている彼女がいる。その余裕のせいか、高橋の言葉には、女日照りの俺を小馬鹿にするような、けれど親友特有の甘やかで、残酷な響きが含まれていた。
「うるせーよ。お前みたいに定期的にヤラせてくれる相手がいる奴には、この干からびた砂漠の気持ちはわかんねーよ」
「はいはい。ほら、飲んでろ。気晴らしに対戦でもするか?」
高橋がコントローラーを放り投げてきた。俺たちはいつものようにテレビ画面に向かい、サッカーゲームを始めた。
時間は二十二時。酒を飲み始めて五時間が経過したところだった。
酔いが回るにつれ、画面の中の選手たちの動きが残像を伴って歪んで見える。俺の意識は、次第にゲームの勝敗よりも、すぐ隣に座る高橋の存在へと滑り落ちていった。
「……っし、ゴール! お前、今日反応鈍すぎだろ」
高橋が快活に笑い、俺の肩をポンと叩いた。
その瞬間だった。不意に、俺の視線が、高橋の唇に吸い寄せられた。少し薄手で、端がキュッと上がった、赤みの強い唇。酒を飲んでいるせいか、それは瑞々しく濡れていて、言葉を紡ぐたびに柔らかに形を変える。サッカー部の頃から知っているはずのその唇が、今はなぜか、熟れた果実のようにスケベな質感を持って俺の網膜に焼き付いた。
「(……なんだ? どうした、俺)」
背中に嫌な汗が流れる。いや、これは気の迷いだ。酒のせいだ。度数の高いチューハイが、脳の配線を一時的に狂わせているだけだ。俺は必死に自分を諌め、画面に目を戻そうとした。
けれど、一度意識してしまった「それ」は、暗闇の中で光る蛍のように、俺の注意を執拗に惹きつける。
高橋が缶を啜る。その唇がアルミの冷たい縁に触れ、少しだけ押し潰される。その弾力。もし、あの場所に自分の指が、あるいは唇が触れたら、どんなに……。
「おい!ケンイチ? 止まってるぞ!?」
「……ああ、悪い。ちょっと酔ったわ。休憩」
俺はコントローラーを置き、大きく息を吐いた。
高橋は「ふーん」と気のない返事をして、自分のスマホを弄り、彼女とのLINEを始めた。無防備な横顔。首筋から鎖骨にかけて、サッカーで鍛えられた細くしなやかな筋肉の線が見える。白いTシャツの首元から覗く、男特有の隆起した喉仏が、唾を飲み込むたびに上下に動く。
「(違う、俺が好きなのは女だ。巨乳でおっとりした、柔らかい生き物が好きなんだ。こんな、骨張った野郎なんて……)」
心の中で呪文のように唱える。だが、想像力という怪物は、一度野に放たれると飼い主の制止を聞かなくなる。
あの発達した高橋の上腕二頭筋大腿が俺の身体を挟み込み、あの艶っぽい唇が俺の乳首を…。
あの男らしい大きな掌が俺の髪を掴み、彼が俺のちんぽを口に含んだら…。
「……っ」
最悪だ。俺の妄想は、もはや引き返せない領域までエスカレートしていた。高橋が彼女と過ごしている時間を、そのまま俺との時間にすり替えていく。彼が発する「男」の匂いが、不思議なほど耽美で、濃密な香りに感じられる。
「……じゃ、俺、そろそろ行くわ。終電ギリだし、彼女が迎えに来いってさ」
高橋が立ち上がり、荷物をまとめる。
「……ああ。危ないし送るよ」
「いや、いいよ、近いし。またな」
高橋は俺の申し出をあっさりと断り、玄関のドアが閉まる。バタン、という乾いた音が、俺のワンルームに冷たい静寂を連れ戻した。
一抹の寂しさが、胸の奥をチリリと焼く。高橋が座っていた場所には、まだ微かに彼の体温が残っているような気がした。
俺はふと、自分の股間に目をやった。
「…………嘘だろ」
スウェットの布地を押し上げ、そこにはっきりと、そして残酷なまでに硬くなった「俺」がいた。
「違う! これは、ただの生理現象だ。酒を飲んで、エロいことを考えたから、対象が誰だろうと反応しただけだ!」
俺は狂ったように頭を振り、鏡の中の自分を睨みつけた。
俺はゲイじゃない。断じて女が好きだ。
それなのに、俺の手は無意識に、まだ高橋の唇の感触を想像しながら、自身を慰め始めていた。俺を襲うこの激しい熱が、親友という聖域を侵食していく恐怖と快楽。
「違う、違うんだ」という絶望的な呟きは、深夜のアパートに誰にも届かず、ただ熱を帯びた空気の中に虚しく溶けていった。
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