駅のホームに取り残されたような静けさが、しばらく胸に居座っていた。
さっきまでそこにあった体温が、風にさらわれていく。
帰らなければ。
そう思うのに、足は動かなかった。
ポケットの中で、指先がまだ彼女の感触を覚えている。
柔らかな髪の感触。
袖を掴んだ、あの一瞬の迷い。
——だめだよ。
彼女の声が、何度も反芻される。
拒むための言葉だったのか。
それとも、踏みとどまるための祈りだったのか。
電車が滑り込んできて、現実が音を立てて戻る。
人の波に押されるようにして乗り込むと、窓に映った自分の顔がやけに他人行儀だった。
あの頃の自分は、もっと単純で、
もっと無謀で、
未来なんて考えずに、ただ好きだと言えた。
今はどうだ。
守るものも、守らなければならない顔もある。
それでも——
彼女の「……どうだろう」が、胸に刺さる。
幸せかどうか。
あの曖昧さは、きっと嘘ではなかった。
翌朝、スマートフォンに短い通知が届いた。
『昨日はありがとう。少し、昔に戻れた気がした。』
それだけ。
余計な言葉はない。
けれど、そこには確かな余白があった。
指が返信を打ちかけて、止まる。
何を書けばいい。
何を書かないべきだ。
長い沈黙のあと、たった一文を送った。
『俺もだよ。』
それ以上は、踏み込まない。
踏み込めば、何かが壊れる。
けれど。
壊さない代わりに、消えるわけでもない。
あの夜の空気も、触れかけた唇も、
指輪の光も。
未完成のまま凍らせたはずの物語は、
薄氷の下で、まだ静かに流れている。
いつかまた会うだろう。
偶然を装って。
あるいは、必然に負けて。
そのとき、自分は何を選ぶのか。
触れるか、離れるか。
今度こそ。
答えはまだ、出ない。
ただ一つ確かなのは——
あの日の続きは終わっていない、ということだけだった。
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