姉を失った私は完全に孤独になった訳ではなかった。
元々母に付いていた何人かの使用人は、私に同情的で、父や兄の目を盗んでは私に書物や筆記用具を差し入れてくれた。
そして何より、私の傍らには、常に一美が居てくれる。恐らく彼女は私が生み出した幻覚であろう事を私は理解していたが、そんな事はどうでも良かった。
私は来る日も来る日も、使用人に書物を頼んで貪り読んだ。歴史、文学、科学、哲学……。私にとってあらゆる知識が新鮮で、私は未知の世界に没頭してゆく。
一美は、共に書物を読み、学びながら時に討論の相手となってくれた。彼女は、私の知識欲を刺激し、私とは違った視点から常に新しい問いを投げかける。
私は、彼女との対話を通じて、外界の知識を吸収しながら思考を深めていった。彼女の存在は、私が何を失っていて、何が足りないかを示してくれた。彼女は私の心を狂気から救い、守り、人間性を保つ唯一の道標であった。
この生活が始まり三年の月日が経つ頃、私の身体は随分と大人になった。背が伸びて身体に厚みが増し、顎にはうっすらと髭が生える。
読み漁った書籍は数百を超えて、数千に及ぼうとしている。子供だった私の知識は幾分豊かになり、思考は大人のそれに近付いた。
母の死の真相を知ったのはその頃だった。
ある日の事、私が頼んでいた本を使用人が持ってきた。それは、母が所蔵していた、外国語で書かれた重く分厚い哲学書で、埃を被り、微かにカビていて、家人が誰も手を着けなかった事を物語っている。
私がページを開くと、すぐに何枚かのメモ紙が差し込まれているのが解った。それは母の日記であった。
兄の暴力性を心配し、姉と私の成長を見守る様子が母の筆跡で外国語で綴られている。だがその筆圧は日を重ねる事に弱くなり、線の形も崩れていく中で、自身の体調が悪化していく様子が克明に刻まれている。
そして母自身が毒を盛られている事を察したのはこの頃で、使用された毒物や犯人の名前についても記されていた。
妾の綾乃と兄孝史の共謀。使用毒物は水銀。
だが母の日記に恨み節は一切無く、ただただこの狂った家に産まれざるを得なかった、子供の行く末を案じている。
母はその生涯を閉じる直前まで優しい人で強く在り続けようとした。それが返って、私の兄への憎しみを増幅させた。
それから数日経ったある夜、私は一美と共に土蔵を抜け出した。青白く幻想的な月の光が、蔵の壁を白く照らし、秋口の冷たい夜風が私の頬を撫でていく。
久々に触れる外界の空気は、埃と土の匂いが混じり合い、どこか懐かしいような、しかし同時に、吐き気を催すような感覚を私に与えた。
私たちは、虫の音に忍びながら綾乃の離れへと向かった。私の脳裏には、母を蝕み、姉を破滅に追いやった孝史と綾乃の姿が鮮明に焼き付いていた。私は、彼らの罪を、この目で確かめたかったのだ。彼らの醜悪な情欲の深淵を、この目に焼き付けたかった。
離れの障子から漏れる灯りが、闇夜にぼんやりと浮かび上がっている。私は音を立てないように、そっと障子に近づいた。微かに聞こえてくるのは、獣のような喘ぎ声と、肉がぶつかり合う鈍い音。私の心臓が、嫌な音を立てて高鳴る。
障子の隙間から中を覗き込むと、そこには、私の憎悪の対象が、醜い情交を繰り広げていた。
兄の孝史が、綾乃に覆い被さり、激しく情を交わしている。行燈に照らされた二人の影が、土壁にぼんやりと浮かび上がって揺れている。
綾乃の肌は、汗と脂でぬめり、大股を拡げている。結った髪は解けて乱れ、その顔は快楽に歪んでいた。
孝史の背中は、獣のように波打ち、凶悪な肉棒を綾乃の濡れそぼった秘裂に突き立てている。ぬらりぬらりと動くその腰の動きは、私の中の憎悪をさらに掻き立てた。
「あ…あー…孝史様ぁ…もっと…」
薬と肉棒に酔った綾乃の呂律の回らない甘ったるい声が、私の耳に届く。
私の脳裏に、凌辱された姉の姿が重なり、その場に崩れ落ちそうになった。
しかし、一美が私の手を強く握り、私を支えてくれた。彼女の瞳は、悲しみに満ちていたが、同時に、私を突き動かす静かなる怒りを秘めているようだった。
私は、懐に忍ばせた長物を鞘から抜き、障子を開けて室内に踏み入る。
仰向けになって股を開き、孝史を受け入れていた綾乃が、暗闇から飛び入る私の存在を捉える。
綾乃の顔から、一瞬にして快楽の表情が消え失せ、代わりに驚愕と恐怖の色が浮かび上がる。咄嗟の事態に綾乃は声も上げられず、ただ身体を強張らせた。
孝史が、綾乃の異変に気づき、動きを止めた瞬間、振り返る間も与えずに、私は手の長物を渾身の力で兄の背に突き立る。
刃は、皮を破り、肉を切り裂き、脊柱を断って、いとも簡単に孝史の体を貫いた。そして、その切っ先は、孝史の体に覆い被さるように横たわっていた綾乃の胸をも貫く。
「ぐ、あ…!孝宏…」
振り返りきらない憎悪の視線だけがこちらを向き、孝史の口から血の混じった呻き声が漏れる。
綾乃は目を固く閉じ、絶命に至る痛みに耐えるが、血を失う事に瞼を閉じる力が衰え、顔面の色が蒼白に失せていく。
二人の体が、ぐったりと血溜まりに崩れ落ちた。生々しい鉄の匂いが辺りに充満して私の鼻腔を刺激する。
私は、その場に立ち尽くした。孝史と綾乃は、もはや動かない。彼らの体から、ゆっくりと生命が失われていくのが見て取れた。
私は、長い間抱き続けてきた憎悪を、この一瞬で解き放ったにも関わらず、私の心は凪いだ様に静かで何の感慨も無く、ただ平静であった。
息絶えた二人を見つめる私を、一美が背後から抱きしめる。その手は微かに震え、ひんやりと汗ばんでいた。殺人を犯した私がこれ以上壊れない様に留め置くかのようでもあった。
だが私は、これ以降、徐々に人の感情を失っていく事になる。
翌朝、屋敷中に、孝史と綾乃の死が知らされた。しかし、父は、彼らが共に情交中に死んだという真実を隠蔽した。正妻と次期当主となるはずだった息子の情交。それは、この家の名誉を著しく傷つける「家の恥」以外の何物でもなかったからだ。
父は、秘密裏に二人の体を荼毘に付し、その死を事故として処理した。そして、使用人たちには厳重な箝口令を敷いた。誰もが、口を開けば己の命はないと悟り、固く口を閉ざす。屋敷全体が、重苦しい沈黙に包まれた。
しばらくして、私は蟄居房から解放された。父は私を見つけるなり、その顔に媚びた笑みを浮かべた。
「孝宏……お前には期待しているぞ」
父はそう言って、私の肩に手を置いた。その手は、かつて私を痴れ者として扱い、土蔵に突き落とした冷たい手とは、まるで違っていた。
私は、父の裏切りと、その変節を、静かに見つめる。彼は、ただ自分の保身と家の名誉のために、私を利用しようとしているのだ。しかし、今の私には、そんなことなどどうでもよかった。
その後、生前、兄が使用していた書斎を与えられた。有能だった兄らしい仕事の記録や、こまめに記された帳簿の他に、夥しい数の麻薬と拷問具、姉や女中との性交の記録など、そこには兄のおぞましい足跡が几帳面に整理されて遺されていた。
私は、書斎の暗がりに一美を呼んだ。
「一美。服を脱げ」
私は綾乃と兄の亡霊に見守られながら、一美の秘裂に肉棒を突き立てる。私は温かい滑りに包まれながら、一つ、また一つと壊れていく自分を感じていた。
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