◯私といふ存在
私が語れる幼少の記憶は、あまり無く、その大半は幻覚に覆われている。
私の記憶に最も古いそれは、四歳の時。枕元に立つ黒い影だった。影は微動だにせず、ただ私を見下ろしている。顔は闇に消えているが、なぜか目玉だけははっきりと認識でき、ギョロリとした冷たい視線が、私の魂の奥底まで届くようだった。
この様な事は枚挙に暇がない。
不気味な人影や、這い回る得体の知れない虫や蛇など、幼い私は恐ろしげなものをみては癇癪を起こし、次第に私の相手をする者は居なくなった。
それでも、私には母がいた。母は幸恵といった。優しく穏やかな人だった。私が奇妙な幻覚や幻聴に悩まされていると訴えると、他の家族が訝しむ中で、母だけは私の話を真剣に聞いてくれた。
「孝宏、怖い思いをしたね。でも大丈夫だよ、お母さんがついているから」
母はそう言って、いつも私を優しく抱きしめてくれ、その温かい腕の中で私はようやく安らぎを感じることができた。
母だけが、私の異常を受け入れ、私を支えてくれた唯一の存在だった。母の膝の上で、私は物語を読んでもらい、童歌を教えてもらった。母の優しい声は、私の心に深く染み込み、私を外界の狂気から守ってくれた。
だが、そんな日々も長くは続かなかった。私が八歳になろうという頃、母は体調不良を訴えるようになり、次第に弱っていった。
顔色は日に日に青ざめ、体は痩せ細っていく。私は心配でたまらなかった。だが私の心配も虚しく母はどんどん弱っていく。
母は床に臥せることが多くなり、やがて起き上がることもままならなくなった。私の心を支えていた光が、少しずつ消え失せていく。私は、来る日も来る日も母の枕元に座り、ただ彼女の手を握りしめていた。母の手は、ひどく冷たかった。享年三十四歳。若すぎる死だった。
「孝宏……強くなるんだよ……」
母は、最期の力を振り絞るようにそう呟き、そして静かに息を引き取る。
この時、私の感情の一つが崩れ去った気がした。母のいない世界で私の心は冷たく凍りつき、母の亡骸を前にしても、一筋の涙も溢れない。
恐ろしいものだった筈の幻覚にも、私の心は動じなくなった。目の前にあるものを、ただぼんやりと許容する。私が徐々に感情を失い、人間味を失っていく最初の出来事であった。
出来の良い兄を寵愛する父は、元々疎んでいた私をさらに疎み、気味悪がり、恐れる様になった。
父は、地方の山村の名主であり、何よりも家の名誉を重んじる人間だったが、正妻の死に即して、人に見えないものが見える私が、縁起の悪い何かを持ち込んだと考えたのだろう。
「気狂い」、「家の恥」と断じて、他人の目に触れないようにと厳命、私が十歳になったばかりのある日、父は私を土蔵に作られた蟄居房に幽閉した。
「お前のような気狂いが、家の名に泥を塗ることは許さん!一生そこで、自分の業を呪うが良い!」
父はそう言い放ち、私を暗闇の中に突き落とした。土蔵のひんやりとした空気が、私の肌を刺す。窓のないその部屋は、昼でも薄暗く、常に埃とカビの匂いが漂っていた。幼い私はそこに一人閉じ込められたが、私は寧ろそれを甘んじて受け入れた。
私を見捨てなかった者がいた。それは姉の一恵だった。
私が蟄居房に幽閉されてから程なくして、一恵は頻繁に私を訪ねてきた。
彼女は、私が独りぼっちで寂しがっていること考えたのだろう。夜中に人目を忍んで、ひっそりと土蔵にやってきては、差し入れをしてくれた。温かい握り飯や、甘い菓子。
姉は凍りついた私の心を溶かす唯一の温もりだった。
「孝宏、来たよ」
そう言って、一恵は屈託の無い笑顔を浮かべる。私に読み書きや計算を教えてくれた。壁に文字を書き、指で数字をなぞる。
彼女の指はいつも優しかった。
彼女は私の話を聞きながらウンウンと頷き、彼女自身がその日一日経験した事や学校で学んできた事をよく話してくれた。
私は外の世界に空想を馳せ、未知に心をときめかせる。
一恵はまた、私に歌を教えてくれた。美しい旋律と、心温まる歌詞。それは、私の心を癒し、この陰鬱な空間に彩りを与えてくれた。
彼女の歌声は、私にとっての希望だった。私は彼女の来訪を心待ちにし、彼女が来る日には、まるで祭りの前日のように胸が高鳴った。
「姉様、今日もありがとうございます」
私がそう言うと、一恵はいつも優しく微笑んでくれた。母の生き写しの顔に湛えるその笑顔は、母の笑顔と同様に私の心を溶かし、私に生きる希望を与えてくれる。
私は、いつかこの蟄居房から出られたら、一恵に恩返しをしようと心に誓っていた。
しかし、そんな姉も、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなった。私は、何が起こったのか分からず、ただただ戸惑うばかりだったが、「誰かの告げ口から、父が、彼女の来訪に何か罰を与えたのだろうか?」
その程度に楽観視していた。だが殊の外事態は深刻だった。
何日は過ぎたのだろうか。時間の感覚すら麻痺したある夜、食事を運んできた使用人に姉の事を訊ねる。彼は母に仕えた人物で、私の事を託されていた。
その日の彼の目は悲しみに満ちていた。
「坊っちゃん…」
彼は震える声を絞り出す。私は黙って彼の言葉を待った。悪い予感しかしない。しかし、私は真実を知りたかった。
「姉様が、一恵様が…お亡くなりになりました…」
「何故!?何故だ!?」
問い詰める私に彼は言葉を詰まらせた。言い淀みながらも、絞り出すように言葉を続ける。彼の話は、私の想像を絶するものだった。
「若…孝史様が…姉様に、ヒロポンを…毎日、毎日…」
好々爺とした高齢の彼が、男泣きに肩を震わせる。
私の脳裏に鮮烈な絵を描き出す。孝史の、あの冷酷な目が、一恵の、優しく可憐な体を、弄ぶ姿。私は全身の血の気が引いていくのを感じた。薬で意識を朦朧とさせられた一恵が、兄の言いなりになっている姿が、まざまざと目に浮かぶ。
「そして…一恵様は……世の中に絶望して…」
使用人は、そこまで言うと、嗚咽を漏らし、それ以上言葉を続けることができなかった。
しかし、私は全てを悟った。一恵は、兄の孝史に凌辱され、その心身ともに深く傷つけられ、そして、この世に絶望して、自ら命を絶ったのだ。
私の胸に、激しい怒りと悲しみが同時にこみ上げて混ざり合い、孝史への殺意に変わりながら、一恵を救えなかった自分への無力感。
私は、自分が何者なのかも分からなくなり、ただその場で、虚ろな目をしていた。私の世界は、完全に崩壊した。
その夜、私の目の前に、一人の少女が現れた。彼女は、姉の一恵に生き写しだった。
絹のように滑らかな黒髪を後で一本に縛り、透き通るような白い肌は、闇の中で仄かに輝いている。吸い込まれるような深い色をした大きな目。縁取る長い睫毛をはためかせ、彼女は、何も言わず、ただ私を見つめていた。
その表情には、悲しみも、喜びもなく、ただ私への深い愛情だけが宿っているように見えた。
私は、彼女が、私の絶望が生み出した幻影なのだと直感した。あるいは、母と姉の魂が、私を慰めるために現れたのかもしれない。
彼女は、私の手をそっと取る。その指は、温かく、そして柔らかかった。私は、彼女の手を握り返した。
「お前は……誰だ?」
私がそう尋ねると、彼女の可憐な唇の口角が僅かに上がる。その笑顔は、母と姉の面影を宿し、しかし、それら全てを超越した美しさと慈愛に満ちている。
「私は、あなたです」
彼女はそう答えた。その言葉は、私の心を深く揺さぶった。私は、彼女が私の心が生み出した幻影なのだと理解した。
だが彼女は、質感を持って私の目の前に存在し、私の苦しみと私の悲しみ、私の願望の全てを受け止めてくれる存在だと直感した。
「僕は孝宏。君の名前は?」
「私はあなたが生み出した、あなたの為だけの存在。名前は無いの…」
「そうか、じゃあ君の名前は今日から一美だ」
名前を得て一美は嬉しそうに微笑む。
これが私と一美の最初の出会いだった。
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