【敵を知り己を知れば】
東京・新宿。雑居ビルがひしめき合う一角に、俺の女性用風俗店はある。表向きはエステサロンを装っているが、一歩足を踏み入れれば、そこは女たちの欲望が渦巻く秘密の楽園だ。昨晩、喫煙所でスカウトした樹を連れて、俺は店に戻ってきた。
「まずはシャワー浴びてこい。匂いがきつい」
俺がそう言うと、樹は恐縮したように俯いた。たしかに、路上生活が長かったせいで、彼の体からは独特の生活臭が漂っている。
「はい……すみません」
樹は、素直にシャワールームへと向かっていった。その背中を見送りながら、俺はソファに腰を下ろした。これから、この男を一人前の「ゴッドハンド」に育て上げなければならない。簡単な道のりではないだろうが、俺の直感は、この男には何かがあると告げていた。
樹がシャワーを浴びている間に、俺は店の奥にある資料室に向かった。そこには、俺が長年培ってきた「女が好む男」に関するデータがぎっしりと詰まっている。過去に担当した客のカルテ、アンケート、雑誌の切り抜き、果ては女たちの間で流行しているネット記事まで、あらゆる情報を網羅していた。
タブレットを取り出し、いくつかのファイルを呼び出す。今日の講義は「清潔感」についてだ。女が男に求める清潔感は、男が思うそれとは大きく異なる。その複雑さと深さを、樹に叩き込まなければならない。
しばらくして、シャワーを終えた樹が戻ってきた。髪はまだ濡れているが、顔色は幾分かましになったように見える。俺は、用意しておいたレジュメを樹に手渡し、プロジェクターでパワーポイントを起動した。
「さて、第一回目の講義だ。テーマは**『清潔感』**。お前が今日から女性用風俗のキャストとして働く上で、最も重要になる要素の一つだ」
俺がそう言うと、樹は真剣な眼差しでレジュメを見つめた。
「女はな、まず第一に清潔感を求める。これは揺るぎない事実だ。だが、お前が思ってる清潔感と、女が思ってる清潔感は、まるで別物だと考えろ」
俺はスライドを一枚めくる。そこには、「男が感じる清潔感」と「女が感じる清潔感」という二つの言葉が並べられていた。
「男が感じる清潔感ってのは、要するに**『不潔じゃないこと』**だ。風呂に入ってるか、歯を磨いてるか、服が汚れてないか。最低限のことさえクリアしてれば、それで十分だと考えてるやつが多い。だが、女が求める清潔感は、そのレベルをはるかに超えてくる」
俺は声を張り上げた。ここが重要なポイントだ。
「女が使う『清潔感』という言葉にはな、『衛生的であること』に加えて、『異性として魅力的であること』、さらには**『一緒にいて心地よいこと』**といった、複雑な感情が入り混じってるんだ」
樹は、驚いたように目を見開いている。やはり、この概念は彼にとって新鮮だったようだ。
「例えば髭だ。男からすれば、無精髭はワイルドだとか、セクシーだとか、そういうポジティブなイメージを持つやつもいるだろう。だが、女からすればどうか? 多くの女は、無精髭を見ると『だらしない』『不潔』『老けて見える』といったネガティブな印象を抱く。たとえ手入れされた髭であっても、好みが分かれる。だから、最初のうちは髭は完全に剃り落とせ。これが基本だ」
スライドには、髭を剃った清潔な男性の画像と、無精髭を生やした男性の画像が表示されている。その対比は一目瞭然だった。
「次に髪型だ。これも男と女で感覚がズレる部分だ。男は、流行りの髪型とか、セットに時間かけたとか、そういうことを気にする。だが、女はそこまで見てない。女が重視するのは、『清潔感があるか』『顔に合ってるか』『手入れされてるか』だ。ワックスでガチガチに固めたり、やたらと派手な色に染めたりするのは逆効果だ。基本は短髪で、前髪を上げて額を出す。これが一番、清潔感があって明るい印象を与える」
俺は、様々な髪型の男性の画像を次々と表示し、それぞれの髪型が女性に与える印象を解説していく。樹は、食い入るように画面を見つめていた。
「そして、服装だ。これも非常に重要だ。男は、ブランド物とか、流行の服とか、そういうことを気にする。だが、女はそこじゃない。女が見るのは、**『サイズ感が合ってるか』『シワがないか』『汚れがないか』『全体のバランスが良いか』**だ。どれだけ高価な服を着ていても、サイズが合ってなかったり、シワだらけだったりしたら、それだけで不潔に見える」
俺は、さらに畳み掛ける。
「女が男に求める清潔感は、**『努力で手に入れられるもの』**なんだ。生まれ持った容姿とか、セックスの技術とか、そういうもの以前の問題だ。まずは、この清潔感を徹底的に追求しろ。それが、お前がこの世界で成り上がるための第一歩だ」
講義を終え、俺はタブレットの電源を切った。樹は、まだ茫然とした表情で、レジュメを握りしめている。彼の頭の中では、新しい知識が嵐のように駆け巡っていることだろう。
「ハナちゃん、ちょっといいか」
俺が呼びかけると、店の受付に座っていたハナちゃんが、めんどくさそうに顔を上げた。ハナちゃんは、俺の店の受付嬢で、辛辣な物言いが特徴の20歳の女性だ。しかし、女の心理を読み解くことにかけては、俺も認める才能を持っている。
「何? 面倒ごとはごめんだからね」
「面倒ごとじゃない。樹の服を選んでやってくれ。俺の服を貸すから、その中から一番清潔感があって、こいつに似合うやつを探してやってくれ」
ハナちゃんは、樹を上から下まで値踏みするように眺めた。その視線は、まるで獲物を品定めする猛禽類のようだ。樹は、彼女の視線に耐えかねたように、わずかに体を震わせた。
「ふーん。まあ、仕方ないか」
ハナちゃんは、立ち上がって俺のクローゼットへと向かった。俺の服は、どれも清潔感を重視したシンプルなデザインのものばかりだ。
「あんた、まずはこれ着てみて」
ハナちゃんは、樹に白いTシャツとジーンズを差し出した。樹は、言われるがままにそれらを身につけていく。ハナちゃんは、腕を組みながら樹の姿をじっと見つめている。
「うーん、悪くはないけど、なんか物足りないわね。次、これ」
次にハナちゃんが選んだのは、VネックのTシャツとカーディガンだった。樹が着替えるたびに、ハナちゃんは容赦ないダメ出しを繰り出す。
「あんた、首が短いからVネックは似合わないわね。次、これ。ワイルド系ね」
ハナちゃんは、樹に少しゆったりとしたシャツと、ダメージジーンズを渡した。樹が着替えるたびに、俺とハナちゃんは真剣な表情で彼の姿を吟味する。ワイルド系、さわやか系、シンプル系……。様々な系統の服を試していくうちに、樹の表情も少しずつ変化してきた。
「ねえ、あんた。意外とこういうのが似合うんじゃない?」
ハナちゃんが選んだのは、シンプルな白いシャツと、細身のチノパンだった。樹がそれを身につけると、それまでの彼の印象がガラリと変わった。だらしなかったホームレスの面影はどこにもなく、清潔感があり、どこか知的な雰囲気を醸し出している。
「おお…いいじゃないか、樹。別人みたいだ」
俺が感嘆の声を上げると、ハナちゃんも満足そうに頷いた。
「でしょ? やっぱり、清潔感って大事なのよ。これで少しはマシになったわね」
ハナちゃんの辛辣な言葉にも、今の樹は素直に頷いている。鏡に映る自分を見て、彼は自信に満ちた表情を浮かべていた。彼の目には、確かな輝きが宿っていた。この男は、必ず成り上がる。俺はそう確信した。
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