徹は都内の小学校教諭を対象に講演をした。
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2017年告示の「小学校学習指導要領」では「理科 各学年の目標及び内容〔第5学年〕動物の誕生」の項で「人は母体内で成長して生まれること」とある。
「内容の取り扱い」で「内容については人の受精に至る過程は取り扱わないものとする」と釘を刺している。
要するに小学5年生の理科のヒトの誕生の学習で性交に言及してはならないという。
このような学習指導要領に則って授業をすると「卵子と精子(それらが女性・男性の体内で作られることは教科書で説明される)はどうやって出会うの?」という質問が子供達から出てくる。
ヒトの生殖や性行動について学ぶ上で性交についても取り上げるべきであると考える教師は少数ながら存在する。
が、性交に伴う「快楽」を取り上げた実践記録は小中高を通じてほとんど存在しない。
学習指導要領は禁じているが、小学5年の理科でヒトの発生を学習する以上、異なる個体である女性と男性がもつ卵子と精子がいかにして結合するか、即ち性交を取り上げることは不可欠だ。
人間の性行動を平均的に捉えれば、性的に成熟する成人の生活の中で子作りを目的とする性交よりも快楽追求やコミュニケーションや人間関係作りとしての性交の方が頻度が高いと思われる。
互いに承認された性的パートナーと日常的には避妊して性交する。
新たな生命の誕生を望むときだけ避妊せずに性交する。
これが一般的なパターンであろう。
この事実に触れずに授業を行うと「うちは 3 人兄弟だからお父さんとお母さん3回性交したんだね」という子供の問に対して教師は適切に答えられない。
性交の目的は「快楽追求・コミュニケーション・人間関係づくりなど」だが、これらはどれか一つに解消できない複雑に絡まった人間行動の諸側面である。
性交の快楽は、第三者を排除した空間における当事者としての男女間のみで共有されるものだ。
従って学校の授業で性交における快楽追求の具体相に触れることは、仮に言及される対象者が教師・親・児童その他の当事者や関係者である場合にはプライバシーの侵害となる。
かと言って、快楽に言及することなしにこれを学習することは不可能だ。
学校での性教育において「快楽」を取り上げることの難しさがここにある。
受精の為にペニスをヴァギナに挿入するという説明だけでも、児童には微妙な心理変化を与える。
児童の感情の揺れ動きを無視して生殖行動のメカニズムだけを説明するとすれば、人間の思考や感情や行動や人間関係という面からの性行動の理解を欠落させることになる。
これは生身の人間の行動に関する学習としては決定的に不十分だ。
授業では性交が単なる挿入行為ではなく、父母の愛情ある関係に重点を置いて説明すべきと思う。
ある教育研究者は次のように述べている。
コミュニケーションを深め合う性としての性交は互いに生きる喜びを分かちあう性交だ。
たとえ結婚をしたカップルであっても身籠ることを選ばなかったり、妊娠することが叶わなければその男女の生涯の性はこの類の性交のみ営まれることになる。
ただ一度の人生の性関係において2人がどのように生きるかを左右する深い意味をもつテーマだ。
しかもそこではその人の異性観や性への考え方、受け止め方、謂わばジェンダーやセクシュアリティそのものに直接結びついていく。
性を本能としてでなく文化としてとらえ、誤解や偏見による抑圧のない人間関係・性関係をつくっていく上で、これらの「学習」が不可欠であると考えるゆえんだ。
人の性行動に関して、性交(ペニスのヴァギナへの挿入や射精)に敢えて焦点を当てて来なかったのには理由がある。
我々の周囲の性教育には「性交=挿入」という印象が強い過ぎるからだ。
実際に、性行為のノウハウを示した出版物には性交こそ本番で、その他の性的な接触は本番のための前戯と扱われる。
この類の情報にのみ接する中では、性的に親密になったら性交しなければならないという、ある種の強迫観念さえ生ずる可能性がある。
もちろん性交は重要な性行為だ。
特に生殖を望む場合は不可欠な行為だ。
が、同時に、性交は性的ふれあいの唯一のものでもない。
多様な中の一つの行為や表現に過ぎない。
そのときの関係や状況によっては寄り添うだけでもよい。
頬ずりをしてキスで終わってもよい。
躰や性器に触れて快感を与えたり受け取ったりしてもよい。
ネッキングもペッティングもある。
お互いの合意があればフェラチオやクンニリングスなどオーラルセックスで愛する方法もある。
それらの行為はいつも性交につながるとは限らない。
各々楽しい戯れ(プレジャーリング)で終わってもよいし、時にはそれがオーガズムに繋がってもよい。
人は生殖のために性交するという説明は、中学生に対しては満足させることはできない。
性教育の中で性交を扱う場合、これまで教師の側に、あるジレンマがあった。
そのジレンマとは、自らも含めた大人たちは「生殖につながる性交」を日常生活で営んでいるわけではない。
にも拘らず、教室では「受精・妊娠」のための行為として性交を語るという現実だ。
人は「快楽」を得るために性交するのだということ、但し、快楽=オーガズムではない。
人間の性交は、「結果として」生殖と全く無縁ではない。
しかも学習者である子供に向かって生殖の性を語るとなれば、そこには異性間性交が前提だった筈だ。
その意味で「出生・出産」に関して学ぶ核となる小学校段階の性交は、基本的には生殖を巡る学習が妥当だと言える。
が、小学校高学年になって二次性徴も発現して思春期を迎えれば、性への欲求も関心も変化するのは当然だ。
それは「子供」から「男」「女」へ、いわゆる「第二の誕生」と言い表される変化の始まりだ。
中学生になれば女子の過半数が初潮を迎え、男子の約半数も精通を経験する。
性的欲求も具体的な形として意識される。
どの段階での性学習では、最早「生殖」のためということでは生徒達の学習要求に応えたことにはならない。
性を語る教師のジレンマは理屈として理解していてもそれを突破する論理と言葉を持てないというところにあった。
人は「生殖」のために交わるのではない。
「快楽」を得るためだ。
ではその快楽とは何か。
我々は性の快楽をオーガズムと思い込んできた。
オーガズムつまり性的絶頂感は、男性の場合は射精という具体的な形で確認される。
そして射精は反射としておこらない限り快感を伴う。
が、女性の場合は相当様子が異なる。
オーガズムは明確な形をとらない。
性交でオーガズムを感じたと答える女性は決して多数ではない。
その理由の一つは、女性の場合、より心理的な安心感や相手への信頼感がないと性的な快感、深い愉悦を感じることができないという難しい面がある。
もう一つは、挿入されるヴァギナは寧ろ感覚の鈍い箇所であり、クリトリスがペニスと匹敵する性感帯だからだ。
従って男性の射精と対比しうるオーガズムを得るには性交より寧ろ自慰行為=マスターベーション(これを私はセルフプレジャーと表現したい、若者向け雑誌などでは「ひとりエッチ」などと表現することもあるようだ)の方がずっと確実だとのアンケートの調査がある。
これは女性に限ったことではない。
男性もまた相手の女性との関係を作りながら性行為にまで繋げ、射精の快感を得るにはそれ相当の努力が要るわけで、それよりは手っ取り早く好きな時に確実に快感を得るセルフプレジャーが最適な方法といってよい。
とするならば、性の快楽を味わうには相手はいらないことになりはしないか(近年、ジャーナリズムではこれを「オナニズムの時代」と表現する)。
快楽をオーガズムの獲得と単純に考えればそういうことになる。
にも拘らず人は性の相手を求め相手に近づこうとする。
一体それは何故か。
そこに「快楽」のもう一つの重要な側面、これまで性教育で見落としてきた、人間の性にとって基本的で大切な面がある。
それが「触れ合いの心地好さを分かち合うことで生きる喜びを味わうことができる楽しさ」が人間の性にはあるということだ。
これまで性教育の中では生殖だけが尊ばれ光を当てられてきた。
が、快楽も新しい価値を産み出す。
「生きる喜び」=「自他の生命や躰への愛着、オーガズムなど快感による解放感、相手に快感を与えられたという自信や自己肯定感など。
それは新たに生きるエネルギーを齎す。
そうした満足感を相互に得るには相手への深い信頼や安心感が不可欠だ。
人間の性行動は、実際には生殖のためよりは快感を分かち合うことを通じて生きる喜びを得ることを目的にして行われるのだ。
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この教育研究者の言説は徹の考えと一致するものだった。
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