徹と加奈子はバスルームに入った。
浴槽の縁に加奈子の両手を突かせ、加奈子に尻を突き出させる格好で足を大きく広げさせた。
徹はシャワーとボディーシャンプーを使って加奈子の股間や尻や太腿を念入りに洗い清めた。
永久脱毛した加奈子の股間は、常に甘い蜜を湛え、華麗な花を咲かせていた。
小陰唇の襞の間や膣口や尿道を優しく丁寧に擦って洗い清めた。
肛門の襞も丁寧に開いて念入りに洗った。
ソープを付けた指を肛門に挿し込んで腸内洗浄した。
真白い尻を、ソープを付けて撫で回すように洗った。
最後にシャワーで洗い流した。
交代して徹が浴槽に手を突いて尻を突き出した。
加奈子はシャワーとボディーシャンプーを使って徹の股間や尻や太腿を念入りに洗い清めた。
徹も股間を永久脱毛していた。
徹の股間は常に雅やかで高貴な太茎と豊満な蜜袋が実っていた。
皮を剥いて艶やかな亀頭を露わにし、尿道から陰茎の根元まで優しく丁寧に洗い清めた。
睾丸や肛門の襞も丁寧に開いて念入りに洗った。
ソープを付けた指を肛門に挿し込んで腸内洗浄した。
逞しい尻を、ソープをつけて撫で回すように洗った。
最後にシャワーで洗い流した。
洗い場に敷いたバスマットの上に横たわり、2人は互いにローションを全身に塗り合った。
濃厚なキスを交わす。
唇と唇を重ね合い、唾液塗れの舌と舌とを絡め合った。
互いの唇や舌を使って愛を確かめ合っていた。
徹の手は加奈子の乳房と股間をまさぐっている。
加奈子の手は徹の乳首と股間をまさぐっている。
自慰は自分の性感帯を刺激して快楽を得るが、2人は互いに相手の性感帯を刺激して快楽を得ていた。
異性の躰に触れ、異性に躰を触れられることで、互いの性感が高まるのだった。
快楽を感ずるのは各々自分の躰に過ぎない。
物理的には自分の躰を刺激して自分の躰に快楽を得るのみだ。
が、2人で互いに刺激し合うペッティングやセックスはその快楽を倍増させる。
単なる自慰とそこが異なる。
自慰に限らず、強姦や売春、ラブドールを抱く場合、自分だけの快楽で相手は気持ちよくなっていない。
これでは己の快楽も半減する。
ここが愛し合う男女の性交との決定的な違いだ。
愛し合う男女の性交は互いに快楽を得ることで己の快楽も倍増させる相乗効果をもつ行為だ。
従って、愛し合う男女、恋い慕い合う男女は、大いに性交して大いに快楽を堪能すべきだ。
もちろん、愛し合って性交したとしても子供ができるとは限らない。
子供ができる過程はさらに複雑で、奇跡的な偶然が重ならなければ妊娠には至らない。
だからこそ、結果として生まれてくる子供は2人にとって愛すべき可愛い存在となるのだ。
一方にとっては快楽だが他方にとっては苦痛となるのが「強姦」だ。
男が女を強姦する場合、女は望まぬ性交を強制され、男性一般または性交に対する恐怖心を植え付けられる。
女を強姦する男は嫌がる女を力づくで抑え込むことに興奮して快楽を高めるという。
が、強姦される女も躰を弄ばれるうちに膣が濡れてしまうことがある。
犯されている内に感じてしまい何度かアクメに追い込まれてしまうことがある。
すると男は女も悦んでいると勘違いしてさらに興奮する。
また、女が男を強姦する場合もある。
性的経験の豊富な年上の女が未経験の若い男に対して性交を迫る場合だ。
臆病な童貞の男は恐怖心を覚えつつも女に迫られ触られれば躰が反応することがある。
好きでない女であっても陰茎を咥えられ擦られる内に感じてしまい射精してしまうことがある。
男も女も物理的な性感帯の刺激によって性的快感を得るように作られているからだ。
強姦する女はそれを見て男も悦んでいると勘違いしてさらに激しく興奮する。
強姦された男はこれが原因で、女性一般に対してあるいは女性器に対して恐怖心を抱く。
以後、女性と正常な性交を営むことはできなくなる。
夫婦間やカップル間における「強姦」も深刻な問題だ。
性交中、女の首を強く絞めたりバックで突きながら女の尻を平手打ちしたりする男がいる。
これを悦ぶ女も一定数存在する。
が、全ての女に該当するわけではない。
これを嫌う女からすれば苦痛と屈辱でしかない。
相手が誰であろうと、だ。
要するに「強姦」となる。
また、結婚後数年も経たないうちに何らかの原因で全く性交をしなくなる夫婦が存在する。
一般的には子供が生まれた後の夫婦に多い。
妻の体型が変わってしまった、夫のだらしない生活に嫌気が差した、など理由は様々だ。
極端な場合、結婚後一度も性交経験がないという夫婦も存在する。
結婚前はある程度の頻度で性交していたのにも拘らず、だ。
互いに性欲が弱ければ特に問題は生じない。
が、一方のみの性欲が強い場合は悲劇を生む。
夫のみ性欲が強い場合は妻を強姦する可能性がある。
嫌がる妻を無理やり押し倒して事に及ぶ場合がある。
逆に、妻のみ性欲が強い場合はどうにもならない。
夫にねだっても色々と理由をつけて性交してくれない。
妻は下半身を疼かせながら悶々とした日々を耐え忍ぶことになる。
倫理的な観点から浮気もできない。
可哀そうなことに、いずれの場合も苦痛を感じるのは女の方だ。
結婚という制度がこの悲劇を生むのだ。
子供には両親は必要だから夫婦という制度は必要だろう。
が、一人の男あるいは一人の女として考えた場合、これは不要かつ理不尽な足枷でしかない。
「子作り以外の性交」をする自由が奪われているからだ。
従って、避妊を義務づけた上での配偶者以外の者との自由な性交が承認される世の中にしていくべきだろう。
「愛」の定義自体は様々だ。
倉田百三のように「相手を気遣い相手の気持ちを考えるのが愛」とも言える。
歌手のさだまさしのように「時を越えて変わらないのが愛」とも言える。
「愛し合う男女=互いに性欲の対象にしあう関係にある男女」という意味での愛の定義。
これは一般的な新婚夫婦に適合する。
「結婚」という制度には良い面と悪い面の両面がある。
良い意味では「誰に遠慮することもなく毎晩堂々と性交に耽る関係となることを公的に承認する社会制度」。
悪い意味では「一生涯、互いの肉体のみを性欲の対象としあう関係でいるよう束縛させあう社会制度」。
この2つが「結婚」なる制度の本質だ。
人は、異性と出会い異性に魅力を感じ異性に触れ、という段階をもって恋愛を深める。
プラトニックな恋愛譚は時代を問わず年齢を問わず国籍を問わず人々を魅了してきた。
音楽や文学や絵画などの芸術が数多の恋愛を描いた。
卑近な例では、わが国でも昔から女子の「恋バナ」は盛んだ。
今や女子小学生から30歳代の独身OLに至るまで、女子が2人以上寄れば「恋バナ」の花が咲く。
それを通して身を焦がすような恋や燃え上がるような恋に妄想を膨らませる。
同時にファッションや化粧にも力を入れ、自身を美しく可愛く魅力的に演出する努力を重ねる。
程度の差こそあれ大抵の男はそのように演出された女に魅了され接近してくる。
無論、女達は己の好みの男だけが接近してくることを望む。
そのため、本人の好みにそぐわないその他大勢の男から言い寄られることを忌み嫌う。
これは自然の摂理だ。
大抵の女は無自覚だが、女の本能と直感で「自分にいい思いをさせてくれる男」を鋭く嗅ぎ分けるのだ。
「自分にいい思いをさせてくれる男」とは、「自分を気持ちよくさせてくれる男」だ。
より具体的には「安定感がある頼り甲斐のあるイケメン」となる。
即ち「経済力があり丈夫で健康な子供を産ませてくれる逞しい男」。
かつ「自分だけを一生大切にして幸せにしてくれる男」だ。
これが『源氏物語』の「雨夜の品定め」よろしく「恋バナ」に花を咲かせる女達の願望だ。
が、彼女達が求める理想の男にはもう一つ大切な条件が付く。
それは「自分の肉体を常に性的な快楽で満たしてくれる男」だ。
男を見定める女の感情の根本には本能的に備わった強靭な性欲が息衝いている。
究極的にはそのような男と性交するために涙ぐましい努力をするのだ。
自分を美しく可愛く魅力的に演出するファッションや化粧に興味が沸き、こぞって男を誘惑しようとするのだ。
恋だの愛だのと表面では綺麗ごとを言っていても全ての女は本能では常に逞しい男根をもつ男を求めている。
一方、男は「恋バナ」に花を咲かせることはほとんどない。
男のものの考え方やものの見方は女のそれよりも直接的であり現実的だ。
が、本能や直感で「自分にいい思いをさせてくれる女」を求めることについては女の場合と差異はない。
「自分にいい思いをさせてくれる女」とは、「自分を気持ちよくさせてくれる女」だ。
より具体的には「素直で可愛げがあり、恭しく男を立ててくれる美女」となる。
即ち「明朗でよく笑い、常に自分を肯定し手助けや後押しをしてくれる健康的な女」。
「社交性があり丈夫で健康な子供を産んでくれる女」かつ「自分だけを一生大切にして幸せにしてくれる女」。
が、これにも大切な条件がある。
それは「自分の肉体を常に性的な快楽で満たしてくれる女」だ。
女を見定める男の感情の根本にも本能的に備わった強靭な性欲が息衝いている。
究極的にはそのような女と性交するために涙ぐましい求愛行動をとるのだ。
現実を見る男の場合は、恋だの愛だのと表面的な綺麗ごとはほとんど口にしない。
が、本能では男の本能を刺激し情欲を疼かせてくれる美しい容姿容貌をもつ女を求めているのだ。
倉田百三は「人間の恋には必ず性欲が働く」と書いた。
これは「事実」だ。
性欲をもたない人間が恋に堕ちることはあるまい。
数多の美しい恋愛譚、数多の美しい芸術が生まれたのも、根本には人間の性欲があるからだ。
恋の根本や愛の根本には本能的にドス黒い性欲が渦巻いている。
その意味では「愛し合う男女=互いに性欲の対象にしあう関係にある男女」という意味での愛の定義。
これは、新婚夫婦に留まらず、老夫婦に至るまでの夫婦全般、あるいは不倫カップル全般にも適合するものだ。
不倫が社会制度としての結婚を否定するように捉えられる理由。
それは、性交という行為が上記の愛の意味で捉えられるからではないか。
結婚は、一生涯、互いの配偶者を性欲の対象とするよう束縛する。
生まれた子供にとっては必要な制度と言えよう。
子供にとっては(両親が性欲の対象とし合うか否かは兎も角)常に両親は一緒にいてほしいものだからだ。
が、男女2人だけの関係を考えるときはどうか。
一生涯、性欲の対象を束縛することについては生物学的に見てかなりの無理がある。
哺乳類で一夫一婦型の性交形態をとるのは全種族の僅か数パーセントに過ぎない。
人間社会でも地域や時代によっては一夫多妻制、多夫一婦制、多夫多妻制などが見られる。
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