倉田には妻も娘もいた。
つまり倉田自身も妻と性交している。
それも複数回、いや数え切れぬほどと言ってよいだろう。
これを「悪」と言うならば、生まれた娘は「悪」の結晶と言えよう。
倉田は「善からぬ原因によりて生を享けたものがなる故にその素質の中に既に不幸と邪淫の種を植えられている」と書く。
「限りなく美しく愛すべきもの」である娘を見るたび可愛がるたび世話するたびに「不幸と邪淫の種」を見出したというのか。
娘をそのように見る倉田の思考こそが「不幸と邪淫の種」だろう。
娘を作る際、
美しい妻に欲情したこと、
妻を可愛がりその躰を弄んだこと、
その妻の喘ぎ声に興奮して勃起したこと、
「聖らかなものを涜」すべく妻に射精したこと、
等々、そのような「悪」の行為の結果、妻が妊娠したことも「悪」であり、生まれた娘も「悪」と考える倉田は、自分の行為と自分の思想との矛盾に悩み苦しんだ不幸な男だ。
何故、愛し合う男女間の性交の快楽、恋い慕い合う男女間の性交の快楽を素直に受け入れ敬わないのか。
私は不思議でならない。
倉田の思考に基づく行為が「道徳」的に尊い行為だとも思えない。
寧ろ何故それほど偏屈な思想に捕われ苦しむのか、客観的に見れば愚の骨頂と言えよう。
芥川龍之介は、「悲劇とは自ら羞ずる所業を敢てしなければならぬことである、この故に万人に共通する悲劇は排泄作用を行うことである」と述べた。
「悲劇」をこのように定義するならば芥川の主張は理解できる。
芥川の言う「自ら羞ずる所業」は「肉交」も含まれるか。
性行為も排泄行為も敢えて他人に見せるべきものではなく、逆に見られると羞恥心を催すものであることは間違いない。
が、自然界の動物にはこの感覚はない。
羞恥心を催すのは人間の文化的背景による影響だ。
だからといって性行為を「悲劇」と考えるのが妥当かどうか。
倉田にとっては悲劇だろう。
欲望に敗けて「性交=悪」なる羞ずべき所業をしてしまうのだから。
経済学者、河上肇も「肉体の欲望は人間の欲望の中で一番下等で色食の二欲は最も低級のもの」と述べている。
何故、食欲と性欲を「下等」「低級」と見做すのか。
が、これが大正教養主義の影響下の見解だと言える。
この時代の学者と言えばエリート中のエリートだった。
中卒すら多くなかった時代だ。
旧制高等学校への進学だけでも世間からは憧憬の眼差しを受ける。
況してや大学生(=東京帝大・京都帝大の学生)となると畏怖の念で見られる。
河上肇のような京大教授ともなると、一般大衆のみならずエリート学生から見ても「神」のような存在となる。
間違っても性欲を肯定するわけにはいかなかったのだろう。
倉田と同様、河上にも妻と娘がいた。
彼の主張によれば、彼が娘を作る過程で妻に向けた「欲望」は「下等」で「低級」だったということになる。
「低級」だと罪悪感を感じながら妻と性交したのか?
「下等」なことだと考えながら娘を作ったのか?
それならば、産まれてきた娘は「己の下等で低級な欲望の証」だ。
娘は目にするたびに抹殺したいくらいの「忌まわしい存在」となる筈だが、本当にそうなのか。
そんなはずはない。
生まれた娘は可愛く美しく、大事に育てたのではなかったか?
娘ができた(娘を作った)ということは、妻の躰に射精したということ。
妻に射精したということは妻に性欲の疼きを感じて男根を勃起させたということ。
男根が勃起したということは、妻を可愛いと感じたということ。
その可愛くて愛しい妻の躰を弄んだり辱めたりして、彼女が淫らに喘ぐ姿に興奮したということ。
妻との激しい性交に溺れながら2人で深く愛し合う悦びを共有したということ。
だからこそ、その結晶として可愛い娘ができたのではなかったか?
河上肇の妻にも同様のことが言える。
妻としても、娘を生んだということは、膣に夫の射精を受けたということ。
夫の射精を受けたということは、夫に性欲の疼きを感じて膣を濡らしたということ。
膣が濡れたということは、夫に躰を弄ばれて興奮したということ。
夫が自分に覆い被さって気持ちよさそうに腰を前後させながら男根を出し入れする姿に興奮したということ。
夫が自分を女として性欲の対象にしてくれることを喜んだ筈だ。
自分の躰に欲情した夫に淫部を責め立てられて弄ばれて妻も妖しく悦び喘いだということ。
夫との激しい性交に溺れながら2人で深く愛し合う悦びを共有したということ。
だからこそ、その結晶としての娘ができたのではなかったか?
……そもそも、河上肇の妻=河上秀は、その著書『獄中日記』でも、性欲を否定するような文章は全く書いていない。
妻の方は性交の快楽を悦び、授かった娘も無条件に可愛がったと思われる。
性欲は「一番下等」どころか、これは寧ろ自然が人間に与えてくれた「一番美しく一番尊い」欲望と言えるのではないか。
実際、色欲の「二欲」が旺盛ということは、人間として健康に恵まれ人間らしく生活できていることの証だ。
逆にこれを喪失した者は、生命力が衰えている(死期が近い)ということを意味する。
従って、性欲というものは、一生大切にすべき「一番高等」な欲望なのではないか。
衰えないよう健康に気を付け、出来る限り異性との性交を長く続けていくべきだろう。
徹はこのように結論して講演を結んだ。
徹はこの内容での講演を全国各地で行った。
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