人一倍強い性欲をもつ倉田は、その現実と教養主義の影響を受けた観念的な理想論とのギャップに悩んだ。
倉田に限らない。
後に作家となった武者小路実篤や経済学者となった矢内原忠雄、哲学者となった三木清など、一高出身のエリート学生達は皆、高尚な人格者なる理想と性欲に支配される俗物なる現実との狭間で悩み苦しんだ。
何故、これらの調和を追求せず「ギャップ」として「悩んだ」のか?
性欲や性交を「悪」と捉えたからではないか?
エリート学生達にこの誤った観念を植え付けたものこそが「キリスト教」と「教養主義」だった。
「教養主義」に則った多くの学者や作家達が、未来の国家を担う学生達に向けて、(自分達が悩み抑制できなかった)性欲の疼きや性交の悦びに溺れさせないための啓蒙書を多数著した。
その中で、男女の恋愛をいかに純粋に保つか、肉欲に溺れずにいかに互いに高め合うかなどが熱心に説かれた。
と同時に、性欲や性交に対して低俗で悪だとするレッテルを貼りつけた。
向学心に燃え、人格向上を追求する学生にとっては、理想論としては「異性とは、互いの思慕と尊敬に基づき、互いに精神を向上させ合う恭しい存在」だ。
が、その一方、現実論としては「異性とは、甘い快楽を約束する肉体の結合へと誘惑する魅力的な存在」だった。
異性は崇拝すべき神であると同時に魅惑的な悪魔でもあった。
先に私はまず自然界の動植物を観察することから考察を始めた。
先入観や固定観念を排除するためだ。
「キリスト教」や「教養主義」は自然界の動植物には存在しない。
これらは人間が知恵や知識を身に着けた後に人間の手で創造されたものだ。
そこに束縛されて悩み苦しむならば、一度、自然界に目を向けてみる姿勢も必要なのではないか。
しかし倉田は自然界に目を向けることなく「キリスト教」と「教養主義」に浸って青年時代を過ごし、悩み苦しんだ。
倉田は一高中退後、元級友に充てた手紙の中で、
「私は時々私の女を見る目を純にするために、妻を持とうかと思う」
「性はエゴイズムの最も顕著な動物的要求」
「肉体の交わりは、愛に反する心持ち、動物が共食いするのと似たエゴイスチッシュなもの」
「愛の表現として性交を認めることはできない」
「この頃私には性の要求が堪えがたきほど強くなった」
などと書いている。
当時、倉田には想いを寄せる女性がいた。
が、その女性の肉体との交わりを罪と捉えていた。
理想論として「女性は崇拝すべき神」だからだ。
倉田は『地上の男女』において、「肉交は人間の自然に与えられた生理的要求だから」、「恋愛する男女の肉交は正しい」とする一般論を否定する。
「生理的要求」は「単なる事実」で「道徳とは何の関係もない」と。
自然界全般に見られる「事実」を根拠とせず、人間の創造物たる「道徳」を根拠とするならば、倉田にはその姿勢を肯定すべき理由をまず明示する責任が生ずる。
その姿勢に説得力をもたせられないからこそ、倉田の主張には論理の甘さや一貫性の乏しさが生じ、延いては単なる強弁に陥ることになるのだ。
倉田は「人間の恋には必ず性欲が働く、それは何故であるか、私には分からない」と書く。
自然界における「事実」として人間がそのように作られている以上、人間が考えて分かることではあるまい。
「私には分からない」と書く羽目になるのは寧ろ当然だろう。
分かるか分からないではなく「事実」を受け入れることが大切だ。
その「事実」を受け入れたくないと主張する倉田の頑な姿勢こそ、私には「分からない」。
頑なに性欲や性交に「悪」のレッテルを貼って拒否するからこそ、非論理的な意味不明の文章を書く羽目に陥るのだ。
「生まれたる子は限りなく美しく愛すべきものであるけれども、善からぬ原因によりて生を享けたものがなる故にその素質の中に既に不幸と邪淫の種を植えられている」なる結語に至っては嘲笑ものだ。
このような支離滅裂な文を書くくらいならば、
「肉交という親の邪淫の行為により生まれたる子供はやはり邪淫に満ちた存在だ」
と堂々と主張する方が、論理的にはよほど筋が通っている!
交尾や性交による生殖で生命が誕生し、子々孫々繁栄していく。
地球上で太古から脈々と受け継がれてきた生命の営みだ。
交尾や性交には快楽が伴う。
その快楽をより強く深くするために、動物も人間も互いに心通わせられる信頼できる異性を求めるのではないか。
そうして得た異性と性交して強く深い快楽に溺れるからこそ新たな生命が誕生するのではないか。
この「事実」を倉田は認知できない。
倉田の主張によれば、全ての動物の子供が「邪淫の種を植えられている」という。
魚の子供、蛙の子供、鳥の子供、犬の子供、全てにだ。
自然界の「事実」を無視して何の根拠もなくこう強弁する倉田の思想にこそ邪淫の種が植えられてはいまいか。
倉田は『地上の男女』において「肉交の快楽の頂点にある時、2人は全く何の関係もなく互いを忘れて快楽に溺れている」と言う。
自然界の動物を含め、生殖行為の最中は皆その快楽に夢中になる。
特に快楽の絶頂を迎える瞬間は恍惚として快楽に酔い痴れる。
「何の関係もなく」は兎も角、「互いを忘れ」た状態に陥る。
これは自然界の動物にも見られる「事実」だ。
この状態を倉田は「相手を「物」として扱う時に生じるエクスタシイ」と書く。
この解釈も誤りとは言えない。
性交では相手の躰を使いつつも自分の躰に対して快楽を得る。
これも全ての動物に共通する自然界の「事実」だからこれを「悪」だと断定する理由はない。
「悪」となるのは快楽を感じるのが自分の躰だけとなる場合だ。
即ち、相手が快楽を感じていない、または苦痛を感じている場合だ。
強姦や強制性交や性的虐待などがこれに相当する。
倉田は「屡々手淫する人は出来るだけ残酷な肉交を思い浮かべなければ性欲の興奮を感じなくなる」と書く。
性欲の興奮が悪ならば手淫も悪となる。
ここで何故、突然「手淫」が持ち出されたのか不可解だが、それは兎も角、異性の躰を要する「肉交」と自分の躰のみを要する「手淫」とは全く質が異なる。
「肉交」が「悪」であるのは「肉交の頂点にある時」、2人が「互いを忘れている」からではなかったか。
倉田が言う「愛」即ち「相手の運命を気遣い、相手に感謝し相手を祝福する心」がないからではなかったか。
「手淫」は相手を要しない。
従って「(相手に対する)愛」は存在しようがない。
「自分に対する愛」ならば存在するかも知れないが……。
単に「相手に対する愛」がないから「悪」だとするならば、食事や着替えや排泄や病気療養など、列挙しきれぬくらいのあらゆる行為が「相手に対する愛」がないという廉で「悪」となる。
その意味では倉田の主張は何の説得力もない。
一般的に、愛し合う夫婦や恋い慕い合う男女は、互いの肉体を求め合うことで互いに快楽が得られるからこそ性交を行うのではないか。
互いに異性の肉体に性的な魅力を感じ興奮するからこそ、性交が可能になるのであり、互いに快楽が得られるのではないか。
その結果、子供が生まれるのである。
私は、このように自然界が作られていることを「悪」どころかその美しさを心底から讃美したく思う。
実際「子供を作る行為が気持ちいい」とは何と素晴らしいことか。
生命の持続や繁栄に繋がるものは気持ちよく、生命の危険や終焉に繋がるものは苦しい、……よくできた自然の摂理だ。
生命誕生の際に母親が何故苦しむことになるのかは不思議だが。
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