『地上の男女』では倉田は「殺生」に関しては詳論していない。
従って本稿でもこれについては省く。
ここでは「肉交」に論点を絞る。
上記の通り倉田は「(誤解した)キリスト教の教義」を根拠として性交を「悪」と見做す。
これがこの評論の論理性を破壊させる原因だ。
倉田は(互いに愛していない男女は無論)「互いに愛する男女は決して肉交してはならない」と主張する。
理由は次の4点だ。
1.キリスト教的の霊と肉との調和とは別だ。聖書では「性欲は悪い」からその象徴である「肉交も悪い」。
2.肉交は愛の象徴ではなく愛とは本質的に関係のない性欲の象徴だ。愛は涙と感謝だが、肉交している間にはこれがない。
3.愛のエクスタシーと肉交のエクスタシーは同一ではない。後者は相手の運命を忘れて自己の快楽だけに溺れる肉の楽欲に過ぎない。
4.肉交したからといって愛が深くなるわけではない。肉交の愛とは別だ。肉交は絶対に悪である。
まず1.について。
既述した通り、聖書を誤解曲解しているため論点から除外する。
聖書には性欲を悪とする記述はどこにもない。
悪とされるのは、生殖の目的なしに性欲を抱く場合、生殖の目的なしに性交する場合だ。
前者としては例えばマタイ伝第5章に「色情をもって女を見るものは心のうちに姦淫したるなり」とある。
後者としては創世記第38章のオナンの物語に例がある。
また、4.については、肉交により2人が離れることもある、といった程度の根拠の薄い主張のため、やはり論点に挙げる価値をもっていない。
以下、2.と3.について少し私の考えを述べたい。
2.と3.に於いて倉田は「愛」という用語を持ち出す。
近代教養人のいう「愛が最高潮に達する時に肉交へ到達する、即ち相愛の男女の心と心の抱合を象徴する肉交は善い」を受けて、倉田は「肉交は愛の必然的結果ではない」と返す。
倉田は「愛」の定義を明確に述べていない。
が、倉田は言う……、
「2人は純粋に愛している間は涙と感謝がある筈で性欲は起きない」
「相手の運命を考えない状態が果たして愛のエクスタシイと言えるか」
「異性の運命を想う時の心には性欲は生じ難い、美しい感情にはそれを証明する感謝がある筈だ」
「異性に対して性欲を起こす時は、相手を祝福していない」等々。
これらの文章から推察するに、倉田が言う「愛」とは、「相手の運命を気遣い、相手に感謝し相手を祝福する心」と読み取れる。
これに対し、性欲は「自己の快楽のみに溺れた楽欲」即ち「自分の為の性的快楽=エクスタシーの追求」であると読み取れる。
即ち2.と3.の要点は「肉交は相手を気遣わない自己の性的快楽を目的とするから悪だ」ということになる。
ここで注意すべき点は、キリスト教の教義を(故意か本意か分からないが)誤解曲解して性欲や肉交を絶対悪と捉える倉田は、肉交なるものを「相手の気持ちや境遇を無視して自分だけの快楽を目的とする行為」と限定していることだ。
倉田は、「ある人は言う、強姦や売春の場合はそうかも知れないが、全ての肉交がそうではない、と」なる見解があるにも拘らず、最初から肉交を「女を犯す行為=強姦」と断定する。
肉交と強姦に差異があるのか否かでその後の議論が変わってくる。
強姦は己の性的快楽の為に「暴力で」異性の躰を利用する行為だ。
売春は己の性的快楽の為に「金銭で」異性の躰を利用する行為だ。
これらと、「愛し合う夫婦」や「恋い慕い合う男女」がなす「肉交」を同義とする倉田の定義は、普遍性をもちうるか。
ここで、議論の前提として「肉交=強姦」という定義を認めるならば倉田の主張は明快そのものだ。
確かに現代のフェミニストの中には「SEXは暴力だ」と公言する者もいる。
よほど不幸な性交を経験したものと思われる。
だが、一般的に愛し合う夫婦間または恋い慕い合う男女間に於ける性交の全てを強姦だとする定義は、現実に即したものではない。
鳥や野生動物のオスでさえ求愛した上でメスと交尾する。
いきなりメスに襲い掛かるオスはほとんどいない。
「強姦や売春としての肉交」が「愛し合う男女あるいは恋い慕い合う男女がする肉交とは異なる」なる主張ならば特に違和感はないが。
しかし、倉田は強姦や売春でなくても肉交は悪だという。
その理由を倉田は次のように述べる。
「例えば相手の躰の具合が悪い時でも肉交の要求は起こる。もし肉交の途中で相手の生命に危険を及ぼすような出来事が生じても、肉交は終わりまで達しなくてはなかなかやめられぬだろう」と。
性欲の強い倉田はそうであったかも知れない。
が、これこそ「強姦する者」の視点そのものではないか。
仮に、腹痛を訴えて苦しむ愛妻の乳房に欲情し、嫌がる妻を無理やり押し倒して性交を無理強いする夫がいたとすれば、これは妻の気持ちを無視した「強姦」に他ならない。
騎乗位で恋人に跨る女の下で男が脳梗塞を起こして意識を失ったにも拘らず自分が絶頂するまで腰振りを止められない女がいたとすれば、これは恋人の運命を無視した「強姦」(または「殺人未遂」)に他ならない。
愛し合う夫婦や恋い慕い合う恋人達にこのような行為があるか。
「強姦でない肉交」の例としては、全く的外れとしか言えない。
さらに倉田は、
「この女は処女だ、私は聖らかなものを涜すのだ、しかも私は昨夜は他の女と寝たのに」
「この女は美しい玩具だ、男に身を任せるために生まれて来た」と思う時、あるいは、強姦しようとする女が抵抗する時、性欲が興奮する」
と書く。
加えて、
「屡々手淫する人は出来るだけ残酷な肉交を思い浮かべなければ性欲の興奮を感じなくなる」
と書く。
「性欲の興奮を伴わなければ肉交が生じない」ことは事実だ。
だが、女を涜すことを目的とする肉交、女を玩具扱いにする肉交、抵抗する女を強姦する肉交などは、いずれも(最後のものに至っては倉田自身が断定している通り)やはり「強姦」であり、愛し合う夫婦や恋い慕い合う男女に見られる行為ではない。
従って「強姦でない肉交」の例として挙げるにはこれも不適切だ。
また「異性に対して性欲を起こす時は、喰おうとする時の心境に似ている。性欲を興奮させるものは全て呪いを含む感情のみだ」に至っては論理性の欠片もない。
「性欲を興奮させるもの」が「呪いを含む感情のみ」とはいかなる意味か。
「呪い」などという中世ヨーロッパにおける魔術妖術的な用語を持ち出してまでして倉田は読者に何を主張したかったのか。
不思議に思うのは、このような非論理的な強弁を駆使してまでして何故、倉田は男女の性交というものをかくまで忌み嫌い、唾棄すべき行為として扱き下ろすのか、だ。
倉田は『地上の男女』を「純潔なる青年が霊肉一致の思想によって純潔を失うことを防ぐため」「急いで書いた」という。
「肉交=純潔を失う行為」と定義するならば上の主張は明快だ。
が、この場合、「純潔を失うことを防ぐため=肉交を防ぐため」と同義となり、「急いで書」く理由にはなっていない。
上の定義が誤りならば、「肉交」で「純潔を失う」理由が何なのか、それを何故防ぐ必要があるのかを、倉田は明確にする責任がある。
要するに倉田は明確な理由や根拠なしに、議論の大前提として「性交=悪」だと断定しているに過ぎない。
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