以下『地上の男女』に於ける見解を少し検討してみよう。
まず「人生には2つの害悪がある、一つは人は肉交なしに生まれぬこと、他の一つは人は殺生なしには生きられぬこと」という倉田の主張から……。
この主張の根拠は、仏教では殺生を禁じ、キリスト教では生殖目的でない性交を禁ずるところにある。
倉田はこの評論で宗教を引き合いに出し、それを根拠として述べた。
私はこれ(宗教的教義)の検討の前に、あるがままの自然界をまず観察することにしたい。
自然界の動植物は、各々自己が属する種族の生殖増殖の為に環境に適応し、必要な養分を摂取する。
その際、例えば、草の葉を飛蝗が捕食し、飛蝗が蟷螂を捕食し、蟷螂を小鳥が捕食し、小鳥を鷹が捕食し、……といった具合に異種生物を捕食し捕食される食物連鎖がある。
水中でも同様に、植物プランクトンを動物プランクトンが捕食し、動物プランクトンを鰯が捕食し、鰯を烏賊が捕食し、烏賊を海驢が捕食し、海驢を鯱が捕食し、……という具合の繋がりがある。
彼らは自己が属する種族の生殖増殖のために必要な分を捕食する。
他の種族を己の種族に帰属させて生命を繋いでいく。
生命を繋ぐ目的以外に他の生物の生命を彼らが脅かすことはない。
自らの生命を脅かす行為に遭遇した場合は応戦するが……。
例えば、縄張りを荒らされたり自分を捕食せんとして攻撃を仕掛けてきたりなど。
同様に人間も生命を繋ぐ為に他の動植物を捕食する。
人間も自然界の一つの生物である以上、これ自体は何ら問題視される行為ではない。
問題視すべきは、人間の生命維持に不必要な殺生だ。
例えば、象牙や毛皮を作って儲けるために象やミンクや兎や狸などを殺害すること、あるいは遊び半分で昆虫や蛙や猫などを虐待すること、等々。
人間の生活の安全性を脅かす(あるいは不快を齎す)ものとして、蚊や蠅や蜂やゴキブリを駆除すること、野犬や野生猿や野生熊を捕獲することなども(異論はあるだろうが)場合によってはやむを得まい。
「殺生」を倉田がどう定義するかは明記されていない。
が、自然界をあるがままに観察すれば、人間が生きるために他の動植物の生命を自らの生命維持に繋ぐ糧とすることは、「害悪」とは言えまい。
それでも「害悪」と断じてこれを禁ずるならば人類は絶滅する。
人類を絶滅に追い込むような宗教に何の価値があるか。
そのような「似非仏教」こそ人類にとって「害悪」ではないか。
また「人は肉交なしに生まれぬこと」を「害悪」とする倉田の主張は「生殖目的でない性交を禁ずる」キリスト教の教義に反する。
キリスト教は「子供を作る為の性交」を禁じていない。
旧約聖書の創世記第1章で神は「産めよ増えよ地に満てよ」と述べ、第2章では「人は父母を離れてその妻に会い2人は一体となるべし」と述べている。
子供を作るための性交を禁ずるならば人類は絶滅する。
人類を絶滅に追い込むような宗教に何の価値があるか。
そのような「似非キリスト教」こそ人類にとって「害悪」だ。
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