徹は倉田百三の『地上の男女』に於ける以上の見解に対して次のような評論を展開した。
倉田百三がこの評論を発表したのは1918年1月15日。
26歳の時だ。
この評論に於ける倉田の主張には様々な論理的な矛盾がある。
性欲や性交を「悪」だと激しく断罪しつつ、この評論を「私は性欲を肯定する。
だがそれは性欲をそのままに「善」と見る方法によってではなく、一度「悪」として斥け、その後にその「悪」にも存在の理由を許す宗教の道に依ってだ」なる不可解な文で結ぶ。
旧制一高で首席を争うほど頭脳明晰であった倉田が何故このような論理的矛盾に満ちた評論を書いたのか。
これには事情がある。
実は倉田自身は同世代の学生に比べて性欲が人一倍強い男だった。
その葛藤の一端は有名な『出家とその弟子』や友人への書簡『女性の諸問題』にも見られる。
結核性痔瘻にも苦しんだが性の欲望の強さにも苦しめられた。
後年には女性関係で世間から批判を受けたこともある。
その倉田が一高時代の校友会雑誌に『異性の内に自己を見出さんとする心』を投稿した。
そこには次のようにある。
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私の心には昔より異性を慕い求めるやるせない憧れが潜んでいた。
私は性の問題に想い至ればすぐに胸が躍った。
私は男性の霊肉を引っ下げて直ちに女性の霊肉と合一するとき、最も崇高なる宗教は成立するであろうと思った。
真の宗教はSEXの中に潜んでいる。
私は女よ、女よと思った。
恋は女性の霊肉に日参せんとする心である。
その魂の秘祠に順礼せんとする心である。
ああ前進の顛動するような肉のたのしみよ!
涙のこぼるるほどなる魂のよろこびよ!
まことにSEXの中には驚くべき神秘が潜んでいる。
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このような内容が上級生達の怒りを買った。
いわゆる「鉄拳制裁」の対象となった。
倉田はその時の苦々しい思いとその後の幾許かの反省をもとに『地上の男女』を書いた。
この評論について
「純潔なる青年が漫然たる霊肉一致の思想によって純潔を失うことを防ぐ為に書いた」
「一度失った純潔は永久に還らざるが故に精緻を欠く思索にも関わらず急いでこれを書いた」
……と付記している。
従って本人もその論理の甘さや一貫性の乏しさは自覚していたものと見える。
倉田百三が所属した旧制第一高等学校はナンバースクールのトップとして全国の精鋭達が集うエリート集団の学校だった。
寮生活の中で上級生達から様々な思想や流儀を仕込まれた。
「鉄拳制裁」「ロー勉」「ストーム」「デカンショ節」など独特の用語はここが発祥地だ。
同級生達と切磋琢磨(というマウントの取り合いを)しつつ大正教養主義の波に乗って観念的な理想論を演説し投稿した。
一方、18~19世紀にかけてパリの学生がグリセットを弄んだように、一高の学生の中にも遊郭通いする者は多かった。
高尚な理想生活と卑俗な現実生活とのギャップに悩んだ。
倉田が書いた
「ああ前進の顛動するような肉のたのしみよ!」
「涙のこぼるるほどなる魂のよろこびよ!」
「まことにSEXの中には驚くべき神秘が潜んでいる」
に対しては、多くの一高生が本音としては同感しただろうし、自分が言えない本音をよくぞ明言してくれたと快哉を叫んだことだろう。
一方で、我々は全国屈指のエリート集団だという意識がある。
我々は高尚なる理想生活を追求するエリート学生だという意識がある。
倉田のこのような文章が一高の学生紀要たる「校友会雑誌」に掲載されたことで、「高尚なる理想生活を目指す一高生」の品位が崩れる、悩み迷う一般学生を低俗な方向へ誘導しかねない、という批判が理想主義の学生達の間に沸き起こった。
その結果が「鉄拳制裁」だった。
……とする一般的な見方に加え、私は次の点も指摘したい。
倉田の書いた文章が単なる「個人の本音」に過ぎないならば「鉄拳制裁」には至らなかったろう。
強靭な理性で性欲を抑制し(自慰すら許さず)、国家発展の為に学問一筋へと突き進む一高生も(僅かであろうが)存在した筈だ。
彼らは倉田の文章を読んでも何とも思わない。
「自分とは無関係」、「低俗な学生がいるものだ」程度の感覚で無視するだろう。
「鉄拳制裁」を加えようとした学生達は、倉田と同様、低俗とされる性欲の誘惑に日々負け続け、しかし他の学生に嘲笑されたくないから相談もできずに一人で悩む、という現実があったからこそ、倉田の文章を読んで強い羞恥心と自己嫌悪を催したのではないか。
「校友会雑誌」に掲載されたことで一高の学生達が個々に秘密にしておきたかった「共通の本音」を無断で暴露された感覚に陥ったのではないか。
それに対する復讐が「鉄拳制裁」になったのではないかと思われる。
観念的な理想論は当時の一高生を初めとして大正教養主義が蔓延した時代に流行したスタイルであった。
これらは向学心旺盛な若者の勉学意欲を掻き立てる思想だった。
その先導者の代表格が倉田百三だ。
否、倉田百三に限らない。
一高の校長を務めた新渡戸稲造の影響を受けた学生達、即ち阿部次郎、和辻哲郎、安倍能成、河合栄次郎、天野貞祐、武者小路実篤、亀井勝一郎など、同様の理想論や観念論を展開した者は枚挙に暇がない。
「人はどう生きるか」、「青春をいかに生きるか」、「人生論」、「青春論」、「恋愛論」なる標題の書物が彼らの著書を中心に多数出版された。
それが当時の旧制高校の学生達の向学心を煽った。
従って、この時代の日本に、「性愛論」、「性欲論」、「いかに性交すべきか」なる標題の書物は存在しない。
誰もが興味をもつ内容であったにも拘らず、教養主義の流行で性愛は隠蔽されたのである。
日本は古来、奔放な性愛を描き肯定してきた国だ。
『古事記』、『今昔物語集』、『古今著聞集』、『宇治拾遺物語』、『日本霊異記』、『我身に辿る姫君』等、性愛を描いた文学は数多く見られる。
宗教や祭事にも性愛や生殖を楽しみ祝う文化としてわが国の土壌に根づいている。
これが変化したのはキリスト教が輸入されたためだ。
キリスト教思想はイエス降誕譚に見られるように処女信仰が厚い。
露骨な性欲や性交を忌避する。
明治以降の欧米化政策でこれが更に強化され(西欧諸国と対等に付き合う為には日本人の奔放な性意識を矯正する必要があった)、性愛を謳歌し表現することは恥だとする文化が根づいてきた。
性欲や性交に対する興味が薄らいだ訳ではない。
これを公の場に晒すことに対して強い羞恥心を感ずるようになったのだ。
性愛や性交を堂々と愉しみ表現する者を次第に強く非難し取り締まる習慣が生じてきた。
日本人が西欧人と対等な立場に立つには、日本人一人ひとりが本能や感情に任せた行動を慎み、精神の向上に努め高尚な人格たるを目指さなければならない。
特に、国家の将来を背負い、国民の指導者を期待されるエリート即ち旧制高校の学生達への期待は、一層強くなった。
教養主義はそのような時代の波に合致するものだった。
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