徹は講演『性交論』で倉田百三の評論を引いて持論を展開した。
倉田は評論『地上の男女』において次のように述べている。
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肉体的要求を悪と見做す思想が排斥され、近代教養人は官能の要求に価値を認めた。
男女の肉体の交わりは「夫婦の間に於いてのみ正しい」とされた。
道徳は社会制度の規定により生ずるものではない。
たとえ「夫婦間の肉交のみが正しい」としても、夫婦という社会制度を根拠とせず夫婦関係に特在する事情によるものでなければならない。
また「恋愛する男女の肉交は正しい」とする思想。
私はこの思想に対して疑問をもつ。
他にも一般に肉交を是認する思想がある。
「肉交は人間が与えられた生理的要求」だからだという。
が、これは道徳とは何の関係もない単なる事実に過ぎない。
愛が最高潮に達する時に肉交へ到達する。
即ち相愛の男女の心と心の抱合を象徴する肉交は善いのだという。
私も嘗つてはこの思想を信じた。
だが今はこの思想を疑う。
私はそのことを考えると羞恥と後悔の念に駆られる。
肉交は愛の必然的結果ではない。
愛と別物、いや愛の反対だ。
愛を「善」と見るならば肉交は「悪」だ。
互いに愛する男女は決して肉交してはならない。
以下に理由を挙げる。
第一にキリスト教的の霊と肉との調和とは別事だ。
聖書に拠れば性欲は悪い。
故にその象徴なる肉交は悪い。
即ちキリストによれば性欲と肉交とは初めより終わりまで肉である。
その何処にも霊はない。
第二に肉交は愛の象徴ではない。
肉交は何等かの精神的要素の象徴には相違ない。
私は肉交が性欲の象徴であることは認めるが、愛の象徴ではない。
肉交は愛の要求からは起きずに性欲の要求から行われる。
愛とは何の本質的関係もない。
肉交の要求が生ずるときは愛の緩んでいる時だ。
2人が真に愛している時は感謝と涙がある筈で、肉交にはならない。
肉交している最中は2人は少しも互いに愛してはいない。
肉交の快楽の頂点にある時、2人は全く何の関係もなく互いを忘れて快楽に溺れている。
この状態は「心と心との抱擁の証明」だと誤って認識される。
第三に肉交のエクスタシイは愛のエクスタシイではない。
肉交はキリスト教的には肉のみの楽欲に過ぎない。
そのエクスタシイは男女が互いに相手の運命を忘れて自分の快楽だけに溺れる時に起こる。
相手の運命と自分の運命との抱合ではなく相手を「物」として扱う時に生じるエクスタシイである。
ある人は言う、「強姦や売春の場合はそうかも知れないが、全ての肉交がそうではない。
相愛の男女の肉交は愛のエクスタシイだ」と。
2人の逢引した時の情景を想像して見よ。
2人は純粋に愛している間は性欲は起きない。
起きるのは感謝と涙だ。
が、愛が緩んだ時には愛と性欲が混じって働く。その愛は不純だ。
次第に愛が退き性欲が中心となる。
そして肉交に及びクライマックスになる。その時は全く愛はない。
例えば相手の躰の具合が悪い時でも肉交の要求は起こる。
もし肉交の途中で相手の生命に危険を及ぼすような出来事が生じても、肉交は終わりまで達しなくてはなかなかやめられぬだろう。
このように相手の運命を考えない状態が果たして愛のエクスタシイと言えるか。
第四に肉交したために愛がインニッヒ(心底からのもの)になるとは限らない。
肉交の愛とは別事だ。
ある人は言う、「肉交したる2人は以前よりインニッヒになる」と。
必ずしもそうではない。
肉交したために却って離れる愛人もある。
肉交せねばインニッヒになれないことはない。
私はいかなる場合でも(夫婦の間でも相愛の間でも)肉交は絶対に悪だと信じる。
「愛のない肉交はしたくない」とは屡々聞く言葉だ。
が、愛があっても肉交してはいけない。
仏者が女人を禁じたのは肉交そのものが悪だからだ。
ある人は「それでは子孫が出来ない、人類は絶滅するではないか」と言う。
しかしたとえ人類が絶滅しても悪は悪だ。
殺生が悪であるのと同じ理屈だ。
私は人生に2つの害悪があると思う。
一つは肉交しなければ子供が出来ないこと、他の一つは殺生しなければ生きていけないことだ。
異性に対して性欲を起こす時は、相手を祝福していない。
故に罪だと言える。
喰おうとする時の心境に似ている。
その証拠には性欲を興奮させるものは全て呪いを含む感情のみだ。
性欲を起こす時とはどういう時か。
「この女は処女だ、私は聖らかなものを涜すのだ、しかも私は昨夜は他の女と寝たのに」
こう思う時、性欲は興奮する。
「この女は美しい玩具だ、男に身を任せるために生まれて来た」
こう思う時性欲は興奮する。
「じたばたしてももう私のものだ」
強姦するものは女が抵抗するだけ性欲が興奮する。
猫がネズミを食う前に弄ぶ時の心境と、男が自分の犯す女を肉交する前に色々と弄ぶ心境は似ている。
すべての征服の意識は性欲を興奮させる。
屡々手淫する人は出来るだけ残酷な肉交を思い浮かべなければ性欲の興奮を感じなくなるという。
これに反して異性の運命を想う時の心には性欲は生じ難い。
美しい感情にはそれを証明する感謝がある筈だ。
性欲には感謝が伴わない。
躰の交わりの直後に抱き合って泣くこともある。
けれどそれは性欲への感謝ではない。
純潔な男女がある異常な鋭い接触をしたために感動して泣くのだ。
肉交に慣れた男女が何の感動もなく、互いに辱めたことも感ぜず、自堕落な心で寝入るさまを想像して見よ。
殺人と肉交と甚だ酷似した罪悪だ。
しかも肉交は殺人よりもっと質の悪い罪と言える。
互いに恋する男女は肉交を避けるべきだ。
恋の本質は性欲ではない。
とはいえ、人間の恋には必ず性欲が働く。
それは何故なのか、私には分からない。
たとえ恋に性欲が伴うことはやむを得ないことであっても、性欲を「善」と見てはならない。
或る人は言う、「性欲を無視しては男女間における恋愛の要求をみたすことが出来ない」と。
生まれてきた子供は限りなく美しく愛すべきものだ
が、善からぬ原因によって生を享けたが故にその素質の中に既に不幸と邪淫の種を植えられているのではないか。
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以上が、倉田の『地上の男女』の大要だった。
倉田が生きた時代は「性交」を「肉交」と称した。
「性交」は「性器を交える」の意味だが、「肉交」は「肉体を交える」だ。
「肉交」の方が生々しい。
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