古来の日本は現代と異なり、性に対して奔放に表現していた。
例えば国造りとしての神々の性交の描写から始まる『古事記』。
神々による不倫、同性愛、性器を弄びなどの他、
「イザナミ(伊耶那美)が、火の神「カグツチ(迦具土神)」を産んだため、ミホト(女陰)を火傷して病に臥した」
あるいは、
「天照大御神が神に献げる御衣を機織女に作らせたとき、スサノオが棟に穴をあけ馬を逆剥ぎにして落とし入れたところ、機織女は驚いてでミホト(女陰)を突いて死んだ」
など、露骨に女性器が描かれる。
他にも、
「排便中に女陰に矢を刺された女が、その矢を寝床に置いたら矢が美男に変身、性交して妊娠した」
あるいは、
「あめのうずめ(天宇受売)が邪気を払う踊りの最中、乳房が上下左右に揺れ裾が捲れて女陰が露わに……」
さらには、
「須勢理毘売命(すせりびめのみこと)は、大国主神(おおくにぬしのかみ)と出遭ってすぐに性交し、その後父親に彼氏を紹介……」
などという淫奔な女の話も登場する。
日本の古典文学にはこの類の記述が多い。
『万葉集』。
「天の川 相向き立ちて 我が恋ひし 君来ますなり 紐解き設けな」
(七夕の夜(=現在のクリスマスイヴに相当=恋人達が性交する日)に下着を脱いで恋人を待とう)
あるいは、
「人の見る 上は結びて 人の見ぬ 下紐開けて 恋ふる日そ多き」
(恋人の来訪が待ち遠しい、早くヤリたいから下着を脱いで待ってるよ)
「鷲の住む 筑波の山の 裳羽き津の その津の上に 率ひて 娘子壮士の 行き集ひ かがふ槌歌に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ」
(筑波の神が認めた祭の今日、我は人妻と性交するから皆もわが妻を性交せよ)
などという淫奔な性を謳歌する歌が多数見つかる。
『今昔物語集』や『古今著聞集』にも同様の性的描写が多い。
前者には、
「美貌の女盗賊がその色香で虜にした男と性交した後、Sの女盗賊は男を縛り鞭で叩く、ところが男はMで女盗賊の虐待に快感を覚え、更に虜になっていく」
という話がある。
わざわざ「好色」という章が設けられた後者には『古事記』と同じ神々の性交描写、
「童貞イザナギと処女イザナミがカササギの交尾を見、それを真似て性交した」
という話が登場する。
これはわが国初性交が後背位であることを示唆するものだ。
『宇治拾遺物語』にも、性交を禁じられている筈の坊主が「自慰」は許されるかを問う流れの中で、
「「その法師の股の上を手を広げ上下に擦れ」と言われた少年が、ふっくらして手で法師の股間を擦ると、陰毛の中から松茸のような大きなモノがふわりと現れ、腹にパンパンとぶつかる」
などという、荒唐無稽な破廉恥談がある。
この類の記述はわが国には履いて捨てるほど存在する。
『土佐日記』には、
「水浴びの途中、旅の安全祈願と称して男女問わず着衣を捲り海の神に性器を露わにする」
という描写がある。
また、『日本霊異記』には「或る生娘が鬼に犯される話」や「或る生娘が蛇に犯される話」がある他、
「或る男が美女と性交したら実は相手は蛇で、口から精液を溢れさせた蛇が翌朝死んでいた」
という性的描写もある。
『今昔物語』には、
「急に尿意を催した若い女が道端で裾を捲って排尿を始めたが、女の陰部を見て欲情した蛇が女を虜にして身動きをとれなくした」
あるいは、
「俄かに欲情した男が畑のカブに穴を開け、女の陰部と見立ててカブで自慰をしたが、その後14~15歳の娘がそのカブに欲情してカブを食すと妊娠した」
さらには、
「美しい処女尼に惚れた僧が、眠る尼を襲って犯したところ、尼は悦びのあまり急に堂へと走って鐘を鳴らし、戻ってくると自ら股間を広げて僧に跨ってきた」
などという淫奔な女の話が登場する。
日本は古来奔放な性を描き、これを肯定してきた国だった。
これが変化したのはキリスト教が輸入された頃からだ。
キリスト教思想はイエス降誕譚に見られるように処女信仰が厚い。
生殖目的でない性欲を邪悪として忌避する。
明治以後の欧米化政策でこれが更に強化された。
わが国でも次第に「性を奔放に描き、謳歌することは恥」とする文化が根づいたのだった。
『源氏物語』の描写は露骨ではないが、性的な内容を要約すれば「重婚、二股、夜這いにロリコン、義母との不倫で妊娠」を描いた物語となる。
奔放な性が描写されることに変わりはない。
直接的に表現すれば、光源氏の
「10歳児に欲情、病に臥す藤壺を強姦、少女誘拐教育、勢いや人違いも臆せず性交、留守中の人妻や低身分あるいは政敵の女でも構わず手を出す」
というエロ三昧を長々と描いている。
内容的には現代の『官能小説』同然だ。
たが『源氏物語』はこれを直接的には表現しない。
そこに『源氏物語』の高い文学性がある。
『源氏物語』がなぜあれだけ読者を魅了するか。
直接的表現をもたない性交描写と登場人物(特に女性)の性交に対する羞恥心が読者の想像力を掻き立てるからだ。
『源氏物語』が出た平安時代は一夫多妻制の時代だ。
男女共に同時に複数の異性と性交することは珍しくなかった。
日本各地の村では旅人の訪問時にはその家の女性が一夜の奉仕をすることもあった。
狭い村では人と出会う機会が少なかった。
旅人への奉仕は外の男から種づけされる貴重な機会だったという。
暗喩的描写で読者の創造を掻き立てる『源氏物語』と対照的なのは『我身に辿る姫君』。
「女性同性愛を扱った最古の物語」として知られる。
内容は、
「異父妹に恋をする兄の近親相姦的恋愛」、
「権中納言による暴力的な強姦」、
「失恋した男同士が慰めあう同性愛」、
あるいは、
「前斎宮(巫女)が、伊勢神宮から帰ってきて叔母の家に住み込み周囲の女性たちと関係を持つ」
など。
「男同士が慰めあう同性愛」の描写が最も過激だ。
空海か最澄が中国から持ち帰った経典『理趣経』。
性交を通して即身成仏に至ると説く書物。
即ち性交至上主義の経典だ。
この中に「十七清浄句」という基本教義があり、例えば、
弓矢の如く速く激しく欲望を働かせる「欲箭」、
愛し合う男女の抱擁「愛縛」、
男女の性交により得られる快楽「妙適」、
異性の体を欲情をもって見る「見」、
などがあり、これらは全て清浄なる菩薩の境地とされる。
真言宗ではこの『理趣経』を聖典として直解し、性的な行法を施していたらしい。
ある宗派の僧の著書『受法用心集』によれば、この宗派は知者や修業者などの髑髏を用いて各自が本尊「髑髏仏」を作ることが重要視されるという。
儀式により聖別された頭蓋骨に和合水(性交中に出る精液と膣液を混合液)を塗り、そこに金銀箔を張り曼荼羅を描くなどの加工を行う。
この髑髏は加工が完了すると本尊として扱われる。
が、完成するまでは脇でひたすら性交を続けて和合水を得る。
髑髏本尊作りの本質は、真言を唱えつつ性交し続けること通して男女の行者が悟りを得ることだ。
いずれにせよ、性交は人類が古代から長きに渡って子々孫々繰り広げてきた聖なる行為だ。
恋い慕い合う男と女の最終的な目的。
それは「性交」の一事に尽きる。
恋い慕い合う男と女が表面的にはいかに美辞麗句を並べようとも、その根底にはドロドロとした淫猥な性欲が脈々と息衝いているのだ。
その行為には強烈な快楽が伴う。
そのためには理性を喪失させ、本能のままに淫乱な痴態を繰り広げる必要がある。
同時にその行為には強烈な羞恥心が伴う。
恋い慕い合う男女間における秘密裏になされる行為なのだった。
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