徹の帰宅後、加奈子は茜との一件を話した。
徹は茜が興味をもっている以上、性交を見せることには賛成した。
が、茜の質問にそのつど答えながら性交するか、説明せずに日常の性交をそのまま見せるか、が問題だった。
加奈子は前者を提案した。
茜は年齢的にまだ性交の真の悦楽を理解できない。
性交は仲の良い男女が戯れにするもので、場合によっては赤ちゃんができる、といった程度の理解だ。
加奈子が提案した「茜の質問にそのつど答えながら性交する」という方法。
これは、教科書的な説明になる可能性が高い。
「男女が性交して性的興奮が高まると精巣から精子がペニスを通って膣の中に送られ、……」云々。
機械的な説明では従来の公の性教育と何ら変わりはない。
肝心な点は、どのように「性的興奮が高まる」のかということだ。
性的興奮を高める方法に関して……、
相手が異性ならば誰でも、勃つ、濡れる、といった男女がいる。
好きな異性だから、勃つ、濡れる、といった男女がいる。
異性のエロチックな姿を見ると勃つ、濡れる、といった男女がいる。
異性に性器を触られると勃つ、濡れる、といった男女がいる。
異性のエロチックな声を聞くと勃つ、濡れる、といった男女がいる。
行為を第三者に見られている(聞かれている)状態の方が勃つ、濡れる、といった男女がいる。
また、性交の方法に関して……、
愛の言葉を囁き合うと性的興奮が高まる、といった男女がいる。
異性に淫語を浴びせられ虐げられると性的興奮が高まる、といった男女がいる。
嫌がり抵抗する異性を無理やり犯すことで性的興奮が高まる、といった男女がいる。
他にも「性的興奮が高まる」状況は相当数に及んで存在する。
これらが性教育で語られることは(少なくとも日本では)ない。
教科書の説明には「精巣から精子がペニスを通って膣の中に……」とある。
それならば、「性的興奮が高まる」という表現は「快感の絶頂を究める」ことを意味するはずだ。
が、そこでは「快感」については全く触れていない。
中高生はどのように「性的興奮が高まる」のかを教わらない。
無論、教わらなくてもネットその他からの情報である程度は知っており、経験もしている。
それを記載しない(説明しない)大人の欺瞞に不満を抱く。
その裏で行われている大人の行為に嫌悪感を抱くのだ。
加奈子が提案した「茜の質問にそのつど答えながら性交する」という方法に対し、徹は一つの懸念を示した。
男女の合意の上でない性交は、強姦や輪姦または露出を目的としたSMプレイなどを除けば、人間の営みの中で最も(排泄行為以上に)プライベートな行為と言える。
もとより自身の裸を他人(身内を含む)に見せることに羞恥を感じる文化が先進諸国にはある。
3歳半の茜には風呂で既に裸を見せているからそこは問題ない。
が、私的な羞恥心や情欲を刺激し、魅惑的で淫猥なエロティシズムをもつ行為としての性交となると、どうか。
性交は、普段は分別のある大人が理性を喪失させて性的興奮を高め、快楽に溺れる行為だ。
理性を失って快楽に溺れ、快楽に溺れて理性を失う。
その姿はその快楽を共有しない第三者にとっては淫乱極まりない。
当事者にとって、それは単に自身の裸を見せる以上に強烈な羞恥を感じる行為となる。
性交する当事者同士は互いに相手を信頼し互いに相手の肉体を求め合う間柄だから、理性を喪失させながら思う存分、性的興奮を高めていくことができるのだ。
破廉恥な姿で淫らな喘ぎ声を放ったとしても信頼するパートナーの間だからこそ、それが可能になるのだ。
が、それを冷静に見詰める第三者の視線を意識した途端、性的興奮は休息に冷める。
これは主に男性側に当てはまることだ。
周囲の環境や心配事など、僅かでも気になることがあると、男根は勃起しなくなる。
たちまち委縮する。
勃起のメカニズムは極めて繊細だ。
徹が勃起しなければ性交は成り立たない。
娘に見詰められる中で加奈子を女として見ることができるか。
加奈子に対して性的欲情や興奮を高められるか。
加奈子も娘に見つめられる中で徹を男として見ることができるか。
徹に対して性的欲情や興奮を高められるか。
2人で性交の快楽に溺れ込むことができるか。
ここに問題点があった。
結局、加奈子が提案した方法で実践することになった。
性的興奮を高める過程も教える。
茜に見せる。
茜が理解するかどうかは分からない。
茜が嫌がったら直ちに行為を中止する。
取り敢えずは、隠さず真の姿を見せる方向で2人は合意したのだった。
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