キリスト教の神は性交で子供が出来るよう男と女を作った。
が、性交が単なる子作り作業ならば、男と女の義務労働に過ぎない。
単なる労働では人間は子作りしなくなる。
人間の個体数は減少し、いずれ滅亡する。
そこで神は性交に「快楽」を付随させた。
男も女も酔い痴れる甘美な快楽。
我を忘れて溺れ込む強烈な淫楽。
結果、アダムとイヴは快楽淫交に耽ってカインとアベルを作った。
旧約聖書によれば、アダムとイヴに全裸に対する羞恥心を覚醒させたのは蛇だという。
いずれにせよ人間は肉体を衣服で覆う文化をもった。
互いの性器を露出して結合させ擦り合わせる性交に対し、強い羞恥心を抱くようになった。
性交は淫猥で破廉恥な行為と見做された。
人目を忍んで秘密裡に性交するようになった。
どんなに淫猥で破廉恥な行為だとしても、性交はやめられない。
性交は男と女の躰に強烈な快感を齎すからだ。
が、困ったことに、どんなに秘密裏に性交したとしても、その結果として子供が出来てしまう。
子供が出来れば、淫猥で破廉恥な性交に耽ったことがバレる。
子供が出来たことに、当該男女は朧気ながら背徳感を覚える。
が、人類の繁栄のためには子作りは不可欠だ。
背徳感を感ずることなく子作りできるようにする必要があった。
その背徳感を緩和するために人間は結婚制度を設けた。
結婚とは、一組の男女に対し、性交して子供を作る自由を与えることだ。
その結果、結婚した男女は堂々と性交できるようになる。
性交に耽ることを当然と見做す土壌が与えられる。
子供が出来ても恥じ入る必要はなくなる。
それが結婚だ。
が、文化の発展と共に、人間は性交の第一目的を快楽に置くようになった。
子孫繁栄ではなく単に快楽に酔い痴れるための性交。
子供を次々に堕胎しながらも快楽に溺れ続ける男女まで現れるようになった。
キリスト教はこれを禁ずるために厳しい戒律を設けた。
が、元来、性交に快楽を与えたのはキリスト教の神だ。
それに従って男と女が性交の快楽に溺れ込んだとしても、それは彼らの責任ではない。
男と女は単に自然の摂理に従っただけだ。
男と女が快楽に溺れることに何の呵責も必要はない。
むしろ、快楽に溺れるのが男と女の自然の摂理だといえる。
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