月は雲に隠れ、足元を照らさなければ覚束ない程の暗さ。人影は無く遠くで犬の吠える声。
「ちょいと飲み過ぎてしまいましたねえ」
水溜まりを避けようにも思い通りに歩けず、ぱしゃりと飛沫が跳ねる。
「久間の旦那はね、私のお陰でお前や喜作を食わせてやれてんですよ」
紫乃は黙って提灯を翳した。運河沿いの道には黒壁の蔵が軒を連ねている。
「私は真っ当な商売してるからね、別にお目溢ししてもらってる訳じゃないんだけれどもね」
紫乃に話しかけている風でもない。平吉はただ夜空を見上げながら、独り言を呟いていた。酒臭い息を夜風が拭い去る。
「うちならお前さんにも、もっといいもん食わしてやれるんだが、お武家様の奉公人横取りするのは、うまくないよねぇ」
言いながら肩に手を回して置いた。緊張が走る。
「お前はかわいいねぇ。本当はうちに置きたいくらいなんだがねぇ」
立ち止まり、置いただけの手に力が入る。
「旦那様、お屋敷はもう少し先です……」
「わかっているよ。少しだけじっとしてなさい」
後じさる紫乃。背には柳の木で右手は運河。視界を平吉の胸元で塞がれながらも、提灯を落とさぬよう必死。全身を硬直させるその小さな体を、平吉はそっと抱き竦めた。
「や、やめておくんなまし……」
裾を掻き分け、汗ばんだ手を差し入れる。
「ちょっと我慢していれば、すぐ済むからね」
左手は肩越しに背中へと回され、冷えた右手で裾の中で股をまさぐられる。
「嫌っ!」
細い腕で力一杯押しやった。それでもふらふらとよろめきながら手を伸ばす平吉の姿は、紫乃にとって魔物でしかなかった。提灯を投げ捨て、今度は両手で突き飛ばす。紫乃の恐怖が怒りや憎悪といったものに変わってゆく。さらにもう一度。その時、視界から平吉の姿が突然消えた。
「おぅっ……!」
大きな水音と飛沫。
「おぶっ……ひっ……助け……」
足掻くも、昼間の雨で水かさの増した運河と、酒の回った体。紫乃は叫ぶでも無く、ただ無表情にその光景を見つめていた。足元では落ちた提灯に火が付いて燃える。やがて、水面は穏やかに波を消した。
蔵の壁は漆黒の板張りで、夜ともなるとまさに闇で塗りつぶされている。なのでお理津は、道端に膝を抱えて座る少女の存在になど全く気づかず、通り過ぎようとしていた。
「ひゃぁっ!」
物音に驚き飛び上がる。身構えながら目を凝らしてみた。
「あんた……紫乃ちゃんかい?」
影は立ち上がり、お理津の方へと近づいてきた。
「どうしたんだい、こんな所でさ。美濃屋の旦那送って来たんだろ? 提灯はどうしたのさ」
紫乃は黙って柳の木の根元を指差した。そこには燃え尽きた提灯の残骸。
「落としちまったのかい、しょうがないねぇ。とにかくこんな真夜中だ。辻斬りだの野犬だのがうろついてるかも知れないんだから、早いとこ帰んな」
それだけ言うとお理津は再び歩き出した。しかし。
「うん? 何でついて来るんだよ。とっととお帰り」
面倒臭そうに手を払う。そのまま無視してまた歩き始め、弁天橋の袂。お理津は疲れ果てていた。いつになく、激しい一夜であった。ため息をついて立ち止まる。
「ちょっと! どこまでついて来るんだい。久間様の屋敷は逆だろ!」
相変わらず無言で、ただ真っ直ぐお理津の事を見詰めている。
走った。水溜りも構わず飛沫を上げて。
「なんでついて来るのさあ!」
橋を渡り神社の境内。息を切らすお理津と、同じように肩で息をする紫乃。彼女は観念して能楽堂の低い階段に腰を下ろした。すると紫乃も隣にちょこんと腰を下ろす。
「そんなに……はぁ、帰りたく……はぁ、ないのかい?」
「……うん」
息を整えて話しかけると、やっと紫乃も口を開いた。
「だってあんた、どーすんだい。行く当てあんのかい?」
首を横に振る。
「そりゃ嫌だったかも知れないけどさ。でもあんた、久間の旦那に食わせて貰ってんだろ?」
どうしたものか。と、お理津は頭を抱える。与兵衛さんに相談してみるしか無いか、と。どのみち自分にはどうする事もできない。それだけは確かである。
「あの……」
夜の虫たちの合奏に掻き消されてしまいそうなほどの、蚊の鳴くような声。
「男の人って、なんでみんな助平なの?」
「なんでって、そりゃぁそう言うもんだし、仕方ないさ。あたしも馬鹿だからうまく言えないけどね」
紫乃の体型は少々幼くも見える。しかしこの時代、十四と言えば何処かに嫁いでもおかしくない歳頃である。
「お理津さんは男の人に色んな事されて、嫌じゃないの?」
お理津は少し困った顔をした。
「そうさね。あたしが体売るようになったのも、あんたぐらいの歳だったっけね。家も飯も無くて、食うために色んな男に買ってもらってさ。そりゃぁ最初の頃は死にたいくらい嫌だったよ。だけどね、あたしは多分生まれつき助平な女なんだ。だから平気になったね。でもね、分かってんだろうけど、間違ってもあたしみたいになるんじゃないよ。あんたまだ若いんだし、帰る場所もあるんだから」
「でも、もう私、帰れないし、帰りたくない……」
真っ直ぐと見詰める紫乃の目には涙が溜まっている。
「困った娘だねえ」
お理津がそっと頭を撫でてやると、胸に顔を埋めて抱きついてきた。
「あたしみたいな夜鷹なんかにゃぁ、お前さん抱える事なんて出来ないよ。あんた一人で生きて行けるんならともかくさ」
「……一緒にいて」
月が雲から顔を覗かせた。柔らかい月明かりが降り注ぐと、紫乃の結っていない髪に青白い光の輪が浮き上がる。その髪を優しく撫で、そっと抱き締めてやるのであった。
与兵衛の家は真夜中にも関わらず閂が外されていた。お理津にとっての帰る場所がここにはあるのだ。家の中では与兵衛が寝息を立てている。彼を起こさぬよう、お理津と紫乃はそっと土間に忍び込むが、暗すぎて足元が見えない。どうにか框を見つけて上がろうと思った時、何かにつまずきそうになる。見るとそれは、皿に乗せられた一個の握り飯であった。
「与兵衛さん……」
ふと、涙が込み上げて来るのを抑え、お理津はその巨大で不恰好な握り飯を二つに割った。そして紫乃と二人、框に腰を掛けて握り飯にかぶり付く。二人とも腹が減っていた。
「ん……帰ったのか?」
広げられた傘の向こうでごそごそと物音。
「あっ、ごめん、起こしちまったかい?」
「いや、構わんさ」
「握り飯……その、ありがとう。旨かったよ」
「その辺の傘、適当に畳んで場所作っていいぞ。もう乾いてるから」
もそもそと布団から這いでた与兵衛は雨戸を開けた。途端、部屋に流れ込んで来た月明かり。
「いい月が出てるなぁ」
雲は捌けて月夜。
「あのさ、ひとつ頼みがあるんだけどさ」
「なんだ?」
「その……この娘を、ちょっと置いてやってはくれないかい?」
与兵衛は闇を透かして框の方に目を凝らす。
「おめえ……久間んとこの奉公人じゃねえか。どうしたんだ?」
「なんかね、もう帰りたくないとか言ってさ、よっぽど酷い事されてたんじゃないのかい?」
「ふむ。そんな事するような奴にも思えぬが」
「いや、その……あたしも良くは知らないけどさ、とにかく嫌で逃げ出して来ちまったんだよ。な? いいだろ? あたしももっと稼いで来れるように頑張るからさぁ」
「そりゃ、まぁ別に構わんけどな」
「本当かい!? これだから与兵衛さん好きだよう」
「こ、こら」
布団に潜り込むお理津。彼の胸に顔を埋めて強く抱きついた。暗い部屋でお理津の含み笑いだけが響く。
「紫乃ちゃんも、こっちおいで」
「え?」
ばさりと布団を捲り上げ、身を起こすお理津は雨戸を閉めた。そして真っ暗闇になった中で手を差し伸べる。紫乃は誘われるまま、お理津と与兵衛の間に体を横たえた。大きめの布団だが身を寄せ合わさなければ狭い。身を硬くする。だがそんな紫乃の緊張と鼓動の高鳴りをよそに、与兵衛とお理津は寝息を立て始めるのであった。
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