お理津は気分が乗らない様子で、八幡神社の脇の回廊。足をぶらぶらとさせながら、暮れなずむ夕空を木立の向こうに眺めていた。
表の通りはいよいよ人通りも疎らで、しかし通りすがる男に声を掛ける気にもなれず。こんな日もある。と、思う。背中の擦り傷がまだ疼くのが、何よりの原因であった。
「今日は帰ってゆっくり寝てようかしらねえ」
筵を抱えて、とん、と地面に降りたその時であった。鳥居から境内に入った能楽堂の前辺りに影がひとつ。
「おう、お理津じゃねえか」
駆け寄って来たのは、久間であった。
「旦那……今日は勘弁して下さいな。なんかそんな気分じゃないんで……」
「早合点するな。俺が声掛ける時は必ず抱かせて貰う時みてぇじゃねえか」
「違います?」
「違うわ。それより腹減ってないか? 蕎麦でも食わせてやるが」
「あら、どう言う風の吹き回しだい?」
久間は役目を終えた後なのか、珍しく涼しげな着流し姿であった。
「いつもは並んで歩くのも憚るくせに、珍しいじゃないか」
「この格好だからな、誰も役人とは思うまい。それより、与兵衛から聞いたか?」
「何をです? 今朝出て行ってから是の方、与兵衛さんとは会ってないからねぇ」
「あいつ、仕官するって言ってただろ。その役処が決まったんだ。……お、取り敢えずそこの店にでも入るか」
弁天橋の袂に軒を構える一軒の蕎麦屋。その暖簾を二人は潜った。久間は椅子に座るなり主人に酒を頼む。卓が三つの小ぢんまりとした店。客は二人の他居ない。
「で、その役処ってのは何だい?」
お理津は酌をしながら話の続きをせがんだ。注がれたお猪口を一気に空け、息をついてから答える。
「村落取締出役の馬廻りだ」
「……なんだい、そりゃ?」
「ようは八州廻りみてえな旅役人の付き人だよ。随分と長屋を空ける事になるだろうな」
「なんだって!」
思わず大声を出してしまったお理津の前に、おもむろに蕎麦が運ばれて来た。
「だが心配するな。長屋は引き払わずに、お前が住めばいい。家賃も俺が与兵衛に立て替えてやる事にした」
「そんなのはどうだっていいんだよ。与兵衛さんは、どれくらい城下を離れなきゃならないんだい?」
「まぁ半年と言った所かな。その代わり俸禄は四倍ぐらいに増える」
「そんな……与兵衛さんと半年も逢えなくなっちまうのかい」
俯くお理津の前で、蕎麦が硬くなってゆく。久間はお猪口を突き出し、神妙な面持ちで続けた。
「それより、長屋を追われたりしたら困るんじゃねえのか? 紫乃が」
「な、なんでそれを!」
お銚子がお猪口にかちりと当たる。
「与兵衛が話してくれた。案ずるな。俺はもう紫乃を咎めるつもりは無いし、与兵衛が引き取ると言っていた。ほら、蕎麦が硬くなっちまうぞ」
「与兵衛さん……」
なぜ一言も相談してくれないのかと、その事が悲しかった。全て一人で決められてしまった事が。
「それでだ。宿無しのお前も堂々と屋根の下で暮らせるって訳だ。今までのように筵で客を取ってないで、部屋で取るようにしたらいい」
「で、でも……」
「与兵衛だってそう言うに決まっている。客は俺が口利きしてやる」
それでは置き屋である。が、久間はまるで最初からそのつもりであったかのように饒舌であった。
「俺は商家や役人仲間に顔が利く。夜鷹を買うような客よりは全然ましだろう」
「旦那だってあたしを買ってたくせに」
「俺は別だ。前々からお前は、夜鷹にしとくにゃ勿体ねえ珠だと思ってたんだ」
「でも、それじゃ置屋と変わんないじゃないか」
与兵衛と過ごした部屋で他の男に抱かれる。彼との日々が汚されてゆくようで、想像するだけでも嫌だった。
「まぁ似たようなもんかも知れねえが、紫乃だっているんだ、それなりの身入りがねえと困るだろう。それとも他にいい食い扶持でも見つけられるってのか?」
「そりゃぁ……そうだけどさ」
確かに筵を抱えて辻に立って客を取るよりは、久間に上客を紹介して貰った方が身入りとしても大きかろう。
「俺が色々と面倒見てやろうってんだ。贅沢言うんじゃねえや」
そう言うと久間は猪口をクイと一気に飲み干した。
「聞けばお前が紫乃のやつを与兵衛の所に連れて行ったそうじゃねえか。俺はな、お前に免じて紫乃のやつを譲ってやったんだぜ」
お理津は蕎麦も喉を通らず、そして何も言えなくなった。
長屋に帰れば、障子から漏れる薄明かりと焼き魚の匂いがお理津を迎えた。ちょうど与兵衛と紫乃が晩飯を終えたところだったようである。
「おお、帰ったか。飯炊いてあるぞ」
「あたしは表で客にご馳走になって来たからいいよ」
「なんだ、そうだったか」
「ありがとう。ご飯は握り飯にでもしとくね」
辺りはすっかり宵闇。菜種油の火も届かない土間の暗がりで、お理津は一人タライを用意して足を洗う。
「お理津よ。今日な、仕官する先が決まったんだ」
「へえ。良かったじゃないか」
何の抑揚も無く答える。お理津と久間の関係は与兵衛に対して秘密であり、もう既に話を聞いたとは言えない。
「ただな、旅役人の付き人でな。しばらくここを留守にしなければならなくなった」
「……そうかい」
「明日、出立する」
「なっ! そんなまた、急な話じゃないか! 明日って……」
まさか、今夜限りだったとは思ってもみなかった。
「廻り方同心の久間なんだが、紫乃について話を着けて来たんだ。俺が身請けする事にした。留守中、この長屋の家賃も立て替えてくれる。だからお前は、紫乃と二人でこの部屋に住んでいろ」
「なんで……なんで一人でみんな勝手に決めちまうんだよう……」
「……お前たちのためだ」
「誰が、いつそんな事頼んださ!」
「お、お理津……」
「あたしは……あんたと一緒にいたいだけなのにさ」
確かに貧しかった。貧しくとも、帰る場所が有った。それはこの部屋でなく、与兵衛の隣。
「暫くの辛抱だ、お理津。稼ぎが増えればお前を養う事だって出来る。そうすれば、夜鷹からも足を洗える。そうすれば……お前を嫁にする事だって……」
「なっ……」
水を打ったような静けさ。紫乃は部屋の隅で両手を口に宛て、息を呑む。
「何を言い出すんだい……いきなり」
「……」
与兵衛は黙ってしまう。いや、何も言えなくなってしまうのだ。ただ背を向けて、ぴくりとも動かない。
「馬鹿な事言うんじゃないよ……なんであたしなんかを」
声が、震えていた。だが、何か喋らなくては、きっと涙が止まらなくなってしまう。
「あたしみたいな夜鷹を嫁になんて……悪い冗談やめとくれよ」
「…………何度も言わせるな」
「だって、あたしとあんたじゃ身分が……」
与兵衛はもう、何も答えなくなってしまった。確かに身分差としては結ばれる事の無い間柄ではあった。しかし与兵衛の家は下士の家で兄が家督を継ぎ、与兵衛自身は浪人と変わらぬような暮らし。祝言こそは遂げられなくとも、夫婦として暮らす事は出来よう。
お理津はタライから上がり、足も拭かずに与兵衛の背中へと抱きつく。そして、その無言の背中で泣いた。
真上に昇った月の光は柔らかく降り注ぐ。濡れ縁に落とされた影は、中庭に伸びる南天の細枝。ゆっくりと忍び寄るように、紫乃の足の小指に触れた。
部屋の中では二人の寝息が漂う。与兵衛の決意は他人事とは思えないくらいに嬉しくて、ついもらい泣きしてしまった紫乃であった。しかし、彼女一人が寝損なってしまった時、ふと、孤独感に襲われた。自分は邪魔者なのではないか、とすら思ってしまうほどに。
お理津は自分を守ると言ってくれたし、与兵衛も身請け人になってくれた。優しさは痛いくらいに感じる。が、同時に入り込めない場所も垣間見てしまった。体の交わりではお理津とも、そして与兵衛とも繋がり合ったと言うのに、この寂しさは何だろう。
細枝の影は、いつしか紫乃の足元を被い尽くしていた。
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