『間もなく終点、湘南江ノ島ー、湘南江ノ島です』
降りる駅など、とうに乗り過ごしていた。お互い顔が真っ赤で息も荒い。
「中山君。もう、終点着いちゃうよ」
「うん、どうしよう。折り返しで戻ろうか」
私たちは身を整えて一旦モノレールを降り、何食わぬ顔で再び進行方向最後尾の車両に乗った。この時間、下りよりも大船行きの方が空いていて、車内には私たち二人しか居ない。
「私ね、実はついこの前、中山君に告られた後にね、初めて知り合った大学生の人と、エッチしちゃったんだ」
「なっ……マジで!?」
彼は目を見開き、口も半開き。何かが崩れてゆく音か聞こえたような、ガーンって音はこう言う時にするんだと思った。
「なんで……」
「ノリかな」
「そんな……」
「もし中山君だったらどうなの? 好きでも無い女の子とそう言う感じになったら。しないの?」
「しない! ……と思うけど……わかんない」
「でしょー? 私だって中山君と同じくらいエッチなんだよ? たぶん、中山君が思ってるような女じゃないよ」
「それでも! ……それでも俺……んっ!」
それ以上は言わせない。ために、彼の唇を塞いだ。ごめんね。……ごめんなさい。これ以上好きなんて言われたら私、傷ついてしまう。
ゆっくりと滑り出すモノレールはジェットコースターみたい。唸りを上げるモーター音。陽は山に隠れ、ひと駅ごとに暗くなってゆく街並み。中山君はボックスシートの間に膝を着いて、スカートの中。私は腰を少し前に突き出して座る。少し汚れた下着はポケットに仕舞い込んだままで、膝の間からは猫がミルクを飲む時のような音、微かに。私は右手で口を塞いで、声が漏れないように。それでも、指の間を縫ってくぐもった声。
駅で二人のオバサンと、塾帰りらしい小学生の男の子一人が乗って来た。でも最後尾の席に座る私たちが何してるかまでは気付かない。
「んーっ」
舌先の触れるか触れないかの感触で、背中がぞくりと総毛立つ。私は足を向かいの席の上に靴のまま乗せた。お尻の下のシートには熱が篭り、汗が染み込んでゆく。
ばさり、と、海から這い出て息継ぎをするかのように、彼。真っ赤な顔にびっしりと貼り付く、汗。
「ふふ、窒息しないでね」
「阿部。俺……」
肩で息をしながら、カチャカチャとベルトを外す。
「え?……あ、ちょ、ちょっと?」
ずらしきれない学生ズボンとパンツからいきり勃つものを辛うじて引っ張り出し、不自由で情けない格好のまま私の上に覆い被さって来る。
「やっ、ちょっ、ダメだってば」
いくら手を突っ張っても、体重を掛けられて重い。小声で抗議しても必死に擦り付けて来る。まるで犬みたいに。
「ごめん……阿部、ごめん……」
「ま、待ってってば、気付かれちゃうってマジで」
「あっ……くっ……」
先っちょが入るか入らないか、というところで生暖かい感触が股の間にじんわりと広がった。
「うぅ……はぁ、はぁ、はぁ……」
「馬鹿……中山君の馬鹿」
目の前で愕然。席と席の間に崩れ落ち、泣きそうな顔で俯く。ポケットティッシュを取り出して股の間を拭っていたら、私まで泣きたい気持ちになって来た。
「ねぇ、次、もう西鎌倉だよ。そんなとこに、しゃがみ込んでないで」
「ごめん……」
「いいから早くズボン穿いて」
モノレールは私たちの住む西鎌倉駅に到着しようとしていた。降りなきゃいけないけど、中山君をこのままにして一人降りるのも、なんだか可哀想だ。そう思っていた時だった。
「あれぇ? 何してんの彌久」
開いた自動ドアから乗り込んで来たのは、私服に着替えた香菜だった。私は驚きで降りるのを忘れ、ドアが閉まる。血の気が引く。
香奈も私たちを見た瞬間に全てを理解し唖然とする。膝の間でうずくまっていた中山君も言葉を失う。モノレールが、動き出す。
「あんた、私の彌久に何してんのよ」
「ち、違うの、これは私が……」
眉間に皺を寄せ、私を睨み付ける。
「ま、別にいいけど。あんたが誰と何しようと」
「香奈……待って、ちょっ、香奈っ!」
前の車両へと去ってゆく後ろ姿は、いくら呼び止めても答えてはくれない。私は後を追おうとするも下半身に力が入らなくて、背凭れに手を掛けながらやっと立ち上がれた。かと思えば、足が縺れそうになる。
あの目は嫌悪感に満ちていた。私は情けなくうな垂れたままの彼を残して香奈を追う。そして、先頭車両にその姿を見つけた。
「香奈、ごめん、私……」
「別に謝る事なんてないじゃん。悪い事してる訳じゃないんだから」
「違うの、いっそ中山君に軽蔑されようとして私、それに……」
「なにそれ?」
自分でも言ってる事が支離滅裂だと思った。けど、上手く説明できないし、とにかくすがるしか無かった。嫌われたりでもしたら、全てが終わる。
「汚いなぁ。触んなよ」
体が凍りついた。香奈は窓の外を眺めたままで、私を見ようともしない。
「あんなキモイやつと、あんな所でエッチな事して……犬ね」
涙が溢れて来た。いつも香奈の言う通りにして来たのに、勝手な事したからだ。
「お願い……もうあんな事しない。何でも言う事聞くから。だから……棄てないで」
棄てられたら、私なんにも無くなっちゃう。
「あんたさ、どんな奴ともエッチできんのね」
「そんな事……」
「できんのよ。だって、あんたは自分が無いんだから。その辺のオヤジと寝ろって言ったら寝れるでしょ」
「そんな……」
でも、香菜がそう言うなら。それで棄てられないなら……。
終点の大船に着いた時、街灯も自動販売機もすでに明かりを灯していた。何か言わなきゃって思うのに、何の言葉も出て来ない。だから、何か言って欲しい。いつもみたいにまた笑って欲しい。そう思っていたら……。
「何ついて来ようとしてんのよ。あたし、これから慎治んちに行くんだけど」
「香奈ぁ……お願い、私、香奈が居なかったら……」
「知らない!」
突然駆け出した香奈。ただ確かなのは一瞬、振り返ったその目に涙をいっぱい溜めていた事。そして私は路上にただ一人、取り残された。
大船駅は仕事帰りのサラリーマンで混雑していた。胸が苦しくて、階段を昇る足も重い。黒い背広たちが追い越してゆく。プラットホームに立てば、息をつく間もなく背中を押され、ぎゅうぎゅう詰めのモノレール。流れる街の灯りをぼうっと眺めながら、頭の中では香奈の言葉がいつまでもこだましていた。
私がこんな風になってしまったのは誰のせいだろう。……違う。そうじゃない。生まれた時から私は汚れてるんだ。私なんか生まれて来なければ良かったんだ。私なんか……。
気付いたらもう西鎌倉の駅。夕日はあんなに赤かったのに、にわかに降り出した小雨がアスファルトを濡らして街灯の反射。でも、家にも帰りたくない。帰ったところで待っているのは、お母さんの小言と受験勉強。
その時、携帯が鳴った。健介さんからだ。
「なに?」
ぶっきらぼうに言う。
『おー彌久、今どこに居んだ?』
「西鎌倉の駅だけど。なに?」
『んじゃぁさ、今迎えに行くからお前も来いよ。友達の親父が江ノ島の近くに別荘持っててな、遊びに行くんだ。慎治と香奈も行ってるからさ』
香奈と会ったとしても、もう、どんな顔すればいいのか解らない。
「健介さん、また……エッチな事するの?」
『かもなー。そいつがさ、いいハッパ持って来るっつーから、キメてりゃそうなるんじゃね?』
嫌な予感がする。そんな危ない集まりで、女の子が香奈一人だったら……。
「……私も行く」
外泊するって家にメールしていたら、健介さんの車は十分も経たずに来た。夜の雨に溶け込むグレーのセダン。ヘッドライトに浮かび上がる雨足を見て、意外と降ってた事に気づく。
「おまたせー。あれ? お前傘持ってねーんか」
「うん」
カーラジオはFM。アップテンポの曲と微妙にズレるワイパーの軋み。灯りの少ない別荘だらけの山道が続く。
「ねぇ、友達って、何人いるの? みんな男?」
「二人だよ。どっちも男だけど」
「あのさ、健介さんて私の事、好き?」
「な、なんだよいきなり」
「ただの、ヤラセてくれる女?」
「バカ言え。好きだよ」
いちいちそんな事聞くなと言わんばかりの、面倒くさそうな横顔。
「じゃぁ、私が慎治さんとか他の男に抱かれてても、平気?」
「遊びじゃねーかよ。そんなもんでいちいちマジんなんなよ」
それが大人の遊びなんだって思ってた。遊んでる人はみんなそうなんだって。だからちょっぴり憧れとかもあった。けど、なんか違う。
「着いたぜ」
白い二階建ての別荘の向こうは崖。建物の前には車が二台停まっていて、その内の一台は慎治さんのワンボックス。
「おー健介、彌久ちゃん、待ってたぜ」
とても居心地が悪かった。玄関で靴を脱いだまま、居場所を見つける事が出来ない。別に散らかってる訳じゃない。ただ、座っていいのかすら分からないような雰囲気。
「へぇ、かわいい娘じゃん」
知らない人が私を見た。緊張が走る。白で統一された部屋の真ん中に三台の真っ赤なソファー。慎治さんと一人の男が首だけをこちらに向けてそう言った。
「……彌久って言います」
「こっちおいでよ」
近付くにつれて見えてくるソファーの向こう側。そこには慎治さんを含む三人の男と、ソファーに横たわる香奈。男たちはみな上半身裸で、香奈も胸元を裸けていた。
「な、なにしてるの」
「気持ちいい事だよ。ミクちゃんだっけ、こっちおいでよ」
部屋に充満する熱気と、なんか甘ったるい匂い。ガラステーブルの灰皿に見た事のない煙草みたいなもの。
「マジでこんな可愛い娘がヤらしてくれんの?」
嫌な予感は的中した。ソファーの香奈は天井の一点を見つめたまま。
「香奈……?」
呼び掛けると、うっすらと潤んだ瞳でこちらを見た。私はガラステーブルの脇に跪く。
「アンタ、なんで来たのよ」
「あ、その……」
「ねぇ慎治、こんな汚ならしい女、追い返してよ。エッチしたかったらさ、みんなでアタシの体使えばいいじゃん。何してもいいよ。アタシ、なんだってするからさ。……だから、この女を……早く追い出して……」
「お、おい、香奈」
突然泣き出した香奈を見て慎治さんは狼狽え、私は全てを理解した。
「なんだよそれ。ツマンネーなぁ」
「しょうがねぇな。ま、香奈ちゃんが何でもしてくれるってんだから、いいんじゃね?」
その時、私の背後から両肩に、健介さんが手を乗せた。
「彌久、あっちの部屋行ってようぜ」
「健介悪りぃ、なんか今日こいつ変なんだ。……香奈お前、彌久ちゃんと喧嘩でもしたんか?」
違う。香奈は自分を差し出して、私を逃がそうとしてるんだ。嫌だ。こんなの、嫌……。
「香奈! いい加減にしてよ! 私が汚いって言うならアナタは何なのよ!」
いきなり大声を出したものだから、静まり返る部屋。私は香奈の手を掴んで起こした。
「み、彌久……」
「まぁ落ち着けよ、彌久ちゃん」
「落ち着いてるわよ! でも今日と言う今日は香奈にハッキリ言わせてもらいたいの。悪いけど、二人だけで話つけてくるから!」
「おいおい、ちょ、待っ」
私はふらつきながら立ち上がる香奈を強引に引っ張って、玄関まで連れ出す。あの変な煙を吸ったのか、抵抗する力も様子もない。そして、土間に転がっていたサンダルを履かせると、黙って表へと連れ出した。
薄暗い玄関先は降りやまない小雨。別荘の窓から漏れる明かりだけが、足もとを照らす。
「……香奈。帰ろ」
拒否られたらおしまい。私にとってそれは最後の賭けだった。
「彌久、あんた……」
「私も香奈も、男なんかのオモチャじゃないよ! あいつら、ただヤリたいだけだよ!」
「わかってるよ。そんなの」
「いいの? ああ言うのって、まわされるって言うんじゃないの?」
慎治さんのワンボックスと健介さんのセダンの間で香奈はずっと俯いたまま、胸元のボタンを嵌める。
「やっぱバカだね、彌久は。とっとと一人で逃げちゃえば良かったのにさ」
「バカはあなたよ!」
びくり、と肩を竦めた後に上目遣い。そして、視線が交わった瞬間に逸らした。
「い、一緒に逃げてやってもいいけどさ……。その代わり、ずっと……死ぬまで私から離れないって約束しなさいよ!」
「うん……約束する」
別荘の脇には狭くて急な下り坂。パタパタと足音を立てながら駆け下りれば、雨粒が正面から顔を叩く。間隔の広い街灯でよく見えない足もと。恐いけど、強く繋いだ手。坂の傾斜はどんどん急になって行き、止まれない。
「わぁぁぁーーっ!」
「きゃぁぁぁーーっ!」
なんだか急に笑いが込み上げて来て、私たちは奇声を上げた。
住宅街の路地をすり抜け江ノ電の線路を越えて、国道を渡る横断歩道は、青。防波堤を突き抜けた先には、いちめんの闇が広がる香奈と私だけの秘密基地。
「はぁ、はぁ、はぁ、香奈……っ、大丈夫? はぁ、はぁ」
「ハァ、ハァ、こ、ここまで来れば……ハァ、大丈夫よね」
私と香奈は防波堤の下、黒い砂浜に大の字で寝転がった。小雨は相変わらず顔を洗い、でも、もうすっかり全身ずぶ濡れだから、どうでもいい。
「はぁ、はぁ、彌久……ひどい事ばっか言って、ごめんね」
「香奈……」
「アハハ、やっぱ私も、彌久が居ないとダメみたい……」
私は体を起こした。黒い海の上には、低い雲が街の灯りに仄かに照らされ、でも灯りの届かない沖ではその境界線も曖昧。穏やかな波の音は、遠いようで近い。ふと、あの日の夜を思い出す。私の帰る場所はここだ。
「本当はさ、私、怖かったんだ。三人の男に囲まれてて。無理してたんだよね」
夜の雲を見上げながら話す香奈。私はそれをただ黙って聞いていた。
「彌久が健介と来た時、一瞬ちょっとだけ安心しちゃったの。連中の矛先がアンタに向くと思って。酷いよね」
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