普段から閉めきっているのか、部屋の空気が淀んでいた。煙草とアルコール、そして男の人の匂い。そこから逃れようと炭酸を流し込む。飲むたびに注がれて、コップの中身は一向に減らない。でも、だんだん感覚がぼんやりしてきて、これが酔うってことかしら。香奈はどこ? と思ったら、閉ざされた襖の向こうからキャッキャとはしゃぐ声。私は急に不安になってきた。
「ミクちゃんてさ、なんだか大人しいよね」
「は、はぁ……」
間抜けな返事。正面に座ってた健介さんが缶ビール片手に私の隣へと移ってきた。私のむき出しの肩と、タンクトップから伸びた筋肉とがくっついて、お尻をちょっとずらす。男の人と二人きりなんて居たたまれない。やっぱ帰ればよかったって、今になって後悔。
「実は結構真面目な娘なんでしょ」
「真面目っていうか、ただ地味なだけで、それに暗いってよく言われて、いいところなんて……あっ」
突然視界がぼやける。
「眼鏡外した方がかわいいよ」
「だめ、ほんとに私、目が悪……ん」
一瞬、部屋が暗くなったのかと思った。首を捻って逃れようとしたけど大きな手に包まれて、唇と目をギュッと瞑るので精一杯だった。
「ぷはっ」
びっくりした。ただそれだけだった。香奈とした真似事のキスとは全く違った。心臓が痛いくらいドキドキして、何が何だか分からなくなって。
「わ、私もう帰りま……はもっ」
再び、お酒臭い息が口の中へと広がって、意識が遠くへ離れて行きそうになって、そうだ、香奈に助けを求めよう、そう思った時に聞こえて来たのは香奈の聞いた事ないような、甘い声。置き去りにされたような、でも、私はどうすればいいのか、どうすれば香奈のところに行けるのか。
「嫌かい?」
ぼやけた健介さんの顔。私は頷く。けどそれは、意味の無い質問。
「大丈夫だよ。俺に任せなって。ね?」
キャミの肩紐が滑り落ちた。部屋が明るい。服の上から胸を触られて、なんて無骨で覚束ない手付きなんだろうと思う。彼の唇が首筋に触れ、擽ったくて肩を竦める。その肩を優しく包んだ大きな手。襖越しには香奈の熱を帯びた喘ぎ。私をほったらかしにして慎治さんとエッチな事してるんだ。私だけが取り残されていて、でも、そんな私が脱がされてゆく。引っ込み思案だった毎日から連れ出されようと。
「やめて下さい恥ずかし……」
「でも、大胆な下着だね」
「違っ、これは香奈ので……」
「可愛いじゃん。似合ってるよ」
耳許で声。重ねて息が耳から頬を伝い撫でる。身体中に力が入って、それをほぐすかのように暖かい手、肩から腕をさする。意識が曖昧になってゆく。アルコールのせいか、彼のせいか、たぶんその両方。
「健介ー、俺の煙草知んね?」
突然開いた襖からパンツ一枚の慎治さんが現れた。咄嗟に私は胸元を隠して身を縮こませる。
「知らねーよ、その辺転がってんじゃね」
「お、あったあった。つーかなんだよ、お前もヨロシクやっちゃってんじゃないの」
「へへ、まーなー」
二人の笑い声に、たまらないくらい恥ずかしくなった。
「こっち来いよ。布団敷いてあっから」
「おぅ」
強く手を引かれて連れ込まれた隣の部屋は、温度と湿度がやけに高い。襖を閉めると少し狭いその部屋はオレンジ色の豆球だけで、やがで目が慣れて来るとむせ返るような空気の中、薄っぺらい布団に香奈が転がっていた。私は健介さんの手を振りほどいて、でもしがみついた香奈は裸で、その体は汗でぬめっていて、信じられないほどに、熱い。
「香奈、私、どうしたら……」
いつもの顔と違う。トロンとした目は私を見ているようでいて、焦点が合っていないような。
「大丈夫だよ。みんなの言う通りにしてればいいの」
優しく髪を撫でられ、その間私の下半身はゆっくりと健介さんに触られてゆく。お腹と背中に力が入って、緊張だけが全身を満たす。纏わり付く、生温かくて毛深い肌の感触。息の匂いと混ざり合う体臭。それらに眉をひそめながら、でも、どこか他人事のように感じる自分。私の意識は逃げ場所を求め、握り続けた香奈の手にとどまる。
「彌久、リラックスしなよ」
「でも、やだよこんなの……」
「大丈夫。アタシが付いてんから」
目の前に香奈。なのに捕らえられた下腹部に膨らむ異物感。思ったほど痛くないのはアルコールのせいだろうか。滴る汗と言う名の体液が、おへそに小さな池を作る。たぶん私は今、産まれて初めてセックスというものをしている。今日出会ったばかりの人と。
香奈も慎治さんと繋がってて、全身を震わせ女になっる。繋いだ手を強く握られた時、緊張の糸が切れてしまった。私は全身の力が抜け、その拍子に全てを受け入れてしまい、ただ早く終わらないかとだけ祈る。
「あっ、俺っ、もっ、イキそっ」
お腹の上でせわしない肉が喋った。私はそれが可笑しくて可笑しくて、吹き出しそうになるのを我慢する。
「痛っ」
強い力で頭を抱え込まれ、お腹の中を激しく突かれ、私の体はバラバラになりそうなほど。でも、少づつ気持ちよくなって来たのは、香奈とシンクロして感覚が伝染してるからなのかも。
ぶるん。
呻きとともにお腹の上の汗臭い肉が脈打つと、それに合わせて下半身を駆け巡る電気。もし私が携帯だったらピーとか言って充電完了をお知らせしちゃってた。そして全身、のし掛かかられて重たくってしょうがない。ゴツゴツした筋肉とプヨプヨした脂肪が、優しく私の名を呼んだ。
「彌久ちゃん。良かったぜ」
思わず吹き出しそうになったけど、その時私は彌久って名前だって事を思い出した。いっそ、ヒトとして扱ってくれない方が良かった気もする。
下半身の痺れを残しながら体の感覚が少しづつ蘇る。けど、力が入らない。目と鼻の間がジンと熱くなり、目尻に溜った涙で視界がぼやけた。
みんな疲れ果ててセックスにも飽きた頃、狭くてカビだらけのバスタブで香奈と体を寄せ合いシャワーを浴びた。煙草臭い部屋に比べてその狭いバスルームは、止まった換気扇から流れ込む外気のお陰でとても新鮮な空気。
「腕、上げて」
小さかった頃によく、こんな風に一緒にお風呂に入っては、私の体を隅々まで洗ってくれた。私はその頃みたいに言われた通り手を上げたり足を上げたりする。変わってしまったのは、お互いの体が成長した事。足の指の間に、そのほっそりした指を滑り込ませ洗ってくれた時、擽ったくて、背中が壁にくっついて、冷たいけど気持ちよくって。
立ち込める湯気の中で見えた、汚なくくすんだ鏡。そこにぼんやりと映る恍惚の私はどこか大人びていて、まるで私じゃないみたいで、じゃあ逆に本当の私って? 地味で引っ込み思案で、いつも真面目ぶってるのが私? わからない。だって今、鏡に映る私はなんだか幸せそうな顔してる。
「また、みんなで遊ぼうね」
シャワーの飛沫が胸元を叩く。香奈は私の目を見ずにそう言った。
「四人で?」
「そう。四人で」
嫌と言ったら離れて行ってしまいそうな、そんな気がして、私は小さく頷いた。
終電間近のモノレールは、テールランプの列の上を滑る。さっきのお酒がまだ残っているのか、ちょっと気持ち悪くなった。外を流れる夜の街をじっと見つめている香奈を、私はぼんやりな頭のまま窓ガラス越しに見た。
「香奈。私たち、このまま帰ったらヤバくない?」
「うん。ちょっと酒臭いかも。……そだ、このまま海行こっか」
窓に映る香奈と目が合う。
「え、こんな時間から?」
加速するモノレール。突然軋む車両と暴れ出す窓。トンネルを抜ければ私たちの住む街に出て、その先はもう海も近い。
『西鎌倉ー、西鎌倉です』
開いたドアからヒンヤリとした風に乗って虫の声。まるでその静けさに耐えるかのように、私たちは口をつぐんで見詰め合う。
やがて、ドアの閉まる音にチクリと胸が痛んだ。だけど動き出したモノレールに、自然と私たちの頬が弛む。降りるべき駅をやり過ごした時点でもう折り返しの終電は絶たれ、あとは寝静まった真夜中。深い夜の闇。もう、戻れない。
「卒業したらさ、ゼッタイ一緒に東京行こうね!」
潮風の中で香奈が叫んだ。夜空に浮かぶ満月。灯台の光が島影の上で静かに点滅する。
「大学受かったらね」
「え? 聞こえなーい」
「大学受かったらっ!」
ここ最近、私たちの成績は下がる一方で、実際は受験も危なくなっていた。私も香奈も高校入学の頃は優等生で通っていたから、親も先生たちも失望したと口を揃えてる。でもいいんだ。香奈はいつも私のことをちゃんと見てくれているし、一緒なら。
「受かんなくても行こーよ! 彌久、家を出て一人暮らししたいって、さんざん言ってたじゃん。フリーターでも一緒に住めばなんとかなるっしょ」
そう言うと、笑いながら波打ち際へと駆けて行った。寄せる波を蹴って飛沫を上げる。
「キャハハハッ! 冷たぁーい」
「香奈、ちょっと香奈ぁっ! 靴びしょびしょ!」
「ねぇねぇ、彌久もおいでよ、気持ちいいから」
「もー……」
お酒のせいなんかじゃない。きっとこれが香奈なんだ。星空を映した濃紺の海へと私も靴のまま駆けだした。
「香奈ってば!」
腕を掴む。
「アハハッ! 冷たくて気持ちイイでしょ」
真っ直ぐと私を見つめる視線。そして次の瞬間、目の前の視界が唇とともに塞がれる。
「ん……」
いつもとは違う濃密なキス。舌が口の中に入って来た時、私は自然としがみついていた。体が、まるで自分の物じゃないみたい。胸が痛いくらいドキドキしている。
「ごめんね……」
微笑む瞳は潤んでいるのか満月を映す。謝らないで欲しい。謝られると不安になる。足許はどこまでも黒い砂と海。反す波に足もとが掬われ、踵が砂の中へと沈んでゆく。一面に広がる灰色の気泡が寄せては反し、立っている気がしなくて、なんだか急に怖くなって、さらに強くしがみついた。
空と海との境目も曖昧な闇を、灯台から延びる光の筋が音もなく撫でる。私と香奈は砂浜へ上がって、防波堤の下の闇溜りに腰を降ろした。濡れた足に砂がこびり付いてなかなか取れない。
「帰りたくないなぁ」
香奈が言った。彼女の家に泊まらせて貰いに行くと、灯りが消えている事が多い。私の家はお父さんだけ帰りが遅く、お母さんと二人で過ごす事が多い。それが嫌で香奈の家に遊びに行ってばかりいた。
落ち着く場所。私たちには今のところそれがない。都会に出ようって香奈が言い出したのも、たぶんそんな私と同じ気持ちだったからに違いない。
「このまんまさ、朝までこうしてよっか」
それもいいかも。海岸通りを走る車や人は、きっと私たちには気づかない。闇に沈む防波堤の影で息を潜めれば、箱根の山稜からすっかり昇りきった月だって私たちには気づかない。もしかしたらこの世界で、ただひとつ落ち着ける場所はここなのかも知れない。
今度は自然に、恋人のようなキスをした。口の中に香奈の温かさと海のしょっぱさが広がる。
昼間の太陽の名残りか、砂は暖かい。寝そべって髪や洋服が砂だらけになったって誰も咎めない。
時折頭上を通り過ぎるヘッドライトとエンジン音。気にしない。
含み笑いは防波堤のコンクリート壁に吸い込まれる。
指を絡め合っても、脚を絡め合っても、お互いを慰め合っても誰にも見られないし怒られない。
「香奈……もっと」
砂の中で絞り出された私の声は切な気。お互いいくら声を上げてもさざ波が掻き消してくれる。私たち、なんでこんな風になっちゃったんだろうって思うけど、聞けなくて、ただ確かなのは押し込めていた何かが解き放たれ、私ってこんなにエッチだったんだって事。
仰向けになった時、目の前には宇宙が広がっていた。指を絡め合いながら香奈も仰向けになっている。夜空に墜ちるような不思議な感じがして、私たちはいつしかケラケラと笑いだしていた。
香奈の家で自分の服に着替え、朝方自宅に一旦戻った。お母さんには昨夜、香奈の家に泊まるとだけメールしたけど返信も無いままで、朝帰った時も何も言われなかった。制服に着替えて再び家を出たけれども、ほとんど寝てない。香奈は今日サボるって言ってたけど、私もそうすれば良かった。
すでに昼前。私も学校に行く気分にはとてもなれなかった。宛てもなく真昼の太陽の下、眩し過ぎて逃げ場を探す。さっき送った香奈へのメールは返って来なくて、たぶんまだ寝てるんだろう。
健介さんにメールしようとして指が止まる。あの人は別に私の事なんか好きでもなんでもなくて、ただ私とエッチしたかっただけだったんだろうと思う。私の事を好きなのは、そう考えた時、中山君のニキビだらけの顔が浮かんだけど、すぐに掻き消した。
周りを見れば背広を着たサラリーマンに道路工事の警備員。宅配のお兄さんが台車をガラガラ鳴らして通り過ぎたかと思えば、私の脇をバイクに乗った郵便配達がコン、とギアチェンジを残して過ぎ去る。みんな、やる事がある。陽射しの照り付ける中で日陰も見つけられず、立ち尽くす私は一人。なんだか、ちょっと泣きたくなってきた。
その日を境に私は少しだけ変わった。男を知ったとか、決してそんなんじゃない。眼鏡をコンタクトに変えてみて、髪の毛も少し短めにして、お陰でお小遣いも底を着いちゃった。でも、変わったのは外見だけ。コンタクトだって、香奈とか健介さんがそうした方がいいって言うから。私自身は何も変わってないのかも知れない。お母さんには勝手な事をと怒られて、お父さんは呆れていた。
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