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『ママのことまもってあげられるよね?』
昼間の凛太郎の言葉が頭から離れない。
モヤモヤとした気持ちを少しでも吐き出したくて、煙草を吸いながら窓の外を見ていた。
「守る、かぁ…」
はぁぁ~とため息と煙が一緒に吐き出される。
ガチャッ
窓の向こうの部屋の扉が開き、電気がついた瞬間、ぎょっとした顔のあや姉と目があった。
バタバタバタッ!ガランッ!!
「ちょっと!な、なに煙草なんか吸ってんの!!?」
「えっ…えっ?あの…」
すごい剣幕で咎められた僕はポカンとしてしまったが「あっ!」とあや姉が声をあげ、カーッと顔を赤らめた。
「ご、ごめん。侑人、もう成人してたんだったわ。
なんかこの部屋に入ったら、昔にタイムスリップしたみたいになって…」
えへへ、と恥ずかしそうに笑うあや姉の手には、缶ビールがあった。
「飲むの?」
「たまにね」
プシュッと開けられ、勢いよくビールはあや姉の喉を流れていく。
「っくぅぅーおいしー!
ふぅ…本当、この部屋にいたら、小学生の侑人がこっちに手を振ってくれてた映像が蘇るよ」
「毎日してたからね。ほとんどストーカー(笑)」
「ふふっ…朝、侑人の「おはよー!」が聞こえたら、なんか私、元気もらってたんだよね」
「…今も、あや姉に元気あげたいけど」
「だからぁ、私は元気だってば~
離婚して落ち込んでると思ってるんでしょ?
残念でした、せいせいしてるんだから~」
「…でも、凛太郎も心配してる」
ピクッとあや姉の動きが止まった。
「ママを守りたいって言ってた」
「…やめてよ」
「あれ、ただのライダーごっこじゃないんだって。
あや姉を守るためのトレーニングしてるって…」
「やめてってば!!」
ダァンッと缶が机に叩きつけられ、中のビールが弾け飛ぶ。
あや姉のこんな声を聞いたのが初めてで、僕はビクンッと固まってしまった。
「…っもぉぉ~~なんなのよぉ…子どもにまで心配させて…私すっごいダメじゃん…
…っ…寂しい思いさせないように、お母さんたちにも気を使わせないように…私、元気でやってるのに…
なんで私、こんなにみんなから心配されてるの?
私ってそんなに可哀想なの?…そんな…やめてよ、めちゃくちゃ惨めじゃない…」
あや姉の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「か、可哀想とかじゃなくて…あまりに元気に振る舞うから…無理してるんじゃないかって…」
「無理?…無理するに決まってるでしょ?
私がメソメソ泣いててどうするの?
誰かが手を差しのべてくれる?
この不安で堪らない気持ちを消してくれる?」
「あや姉…ちょ、落ち着いて…」
「毎日…毎日めちゃくちゃ不安だよ!
離婚して仕事ちゃんと続けられるのかな、経済的には大丈夫かなって。
いつまでも親に頼るわけにはいかないし、凛太郎だって…」
「あ…いや、違…」
「みんなに優しくされるほど、私ってダメな母親だって…思…っ…ひ、ひとりじゃ、何にもできないくせにって…うっ…く…」
「そ、そんなこと、ダメとか思ってないよ!
ただ、あや姉はひとりで抱え込みすぎてないかって思って…」
ウゥーーーウゥーーウゥーン…
ピーポーピーポーピーポーピーポー…
けたたましいパトカーと救急車のサイレンが響き、空気が強制的に絶ち切られた後、シーンと静寂に包まれる。
「…じ、事故、かな…」
「……」
あや姉はなにも言わず、ふぅぅ…と深く息を吐いた。
「あ、あの…」
「旦那の会社の後輩だったの、浮気相手」
「え?」
「私も知ってる子だった。可愛らしくて、愛想も良い子だって思ってた。
凛太郎の誕生日、毎年夫婦ふたりで盛大にお祝いようねって言ってたの。
それなのに、4歳の誕生日の時、旦那は帰ってこなかった」
静かに、あや姉は喋りだした。
「おかしいって、ちょっとずつ思った。
仕事とか言って…帰ってくるのはいつも遅いし。
…実は凛太郎が産まれる前から関係を持ってたんだって。
私、全然気づかなくて。
凛太郎の出産祝いにやって来て「めっちゃ可愛い~私も赤ちゃん欲しいですぅ~」って言ってた。
…思い出しただけでも虫酸が走るよ。
赤ちゃん欲しいって、誰の子?
旦那とイチャイチャした手で凛太郎を触ったの?
めちゃくちゃムカついたけど、それでも私は許そうって思った。
やっぱり旦那のことは愛してたから」
俯いて喋るから、あや姉の顔は見えない。
だけど、静かに肩が震えていた。
「別れて欲しい、二度と会わないで欲しいって頼んだの。
そうしたら…出来ないって。
もう、私のこと女に見れないから、後輩とは別れたくないって。
こいつ頭おかしいんじゃない?って思ったけど、私も引き下がれなくて毎日大喧嘩してた。
凛太郎はいつも子供部屋に隠れてたけど、ある日「やめてよ」って泣きながら止めに来たの。
旦那の足にしがみついて「ママをいじめないで」って…
そしたらあいつ……凛太郎のこと、ぶったの。
「うるさい!」って…」
『おれ、まだちっちゃいから、うまくできなくて…』
「あ、無理だ…って思った。
浮気されて、お前を女と思えないって言われて、プライドがズタズタになってたけど…それでも耐えられた。
でも凛太郎に手を上げたことを私はどうしても許せなくて、翌日離婚届を取りに行ったの」
はぁ…っと息をつく。
「向こうの親は離婚に大反対。何回も説得の電話がかかってきて、終いには「たかが亭主の浮気くらいで、子どもに不自由な思いをさせるな」って言われた。
…優しい人たちだと思ってたんだけどねぇ」
あや姉は、こんなにも傷ついていた。
そんなことを微塵にも思わず、自分の都合で彼女を避け続けていたことが情けなかった。
会っていても、気付けなかったかもしれない。
でも…気付いてあげられたかもしれない。
「ほらね、実際私、めちゃくちゃ惨めなの。
だから絶対みんなから可哀想って思われたくないし、凛太郎のこと幸せにしてあげたいし、離婚して楽しくやってまーすって言いたいし…
…でも不安で…怖くて…やっぱ間違えた?って思うときもあるし…でも、でも…っう…」
『あや姉が悲しい時は僕が慰めてあげるんだ!』
小さい頃の僕の声が、頭の中に響いた。
気が付くと僕は、窓の桟(さん)に足を掛けていた。
「あや姉、ちょっと避けてて…そっち行くから」
自分の部屋の窓に足を伸ばそうとしている僕を見て、あや姉は慌てて止めに入った。
「えっ!?な、ば、バカバカ!危ないでしょ!やめなさい!落ちて怪我でもしたら…」
「あや姉」
「ちょ、ほんと…お、おばちゃんに叱られるよ!やめなって!!」
「あや姉、僕…大人になったよ」
「ゆ、侑人…?」
「だから…こんな距離、何てことない。
あや姉に、ちゃんと届くから」
ギシッ…ミシッ…
左足に力を入れて、僕は向こう側に飛び移った。
つづく
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