あのような痴態を自分に見られたことを 微塵も感じさせない、ふんわりした笑顔だった
分厚いフレームの黒縁眼鏡をかけ、美しさを封印するかのように素っ気ない素顔のままで自分に話しかけている
格子柄のシャツは首元までボタンをかけ、少しオーバーサイズなのか、豊かな乳房はシャツの膨らみに隠されていた
妄想の中では有るが、一度犯したその身体が目の前に有る
「あ、あのう 見ず知らずの自分にお風呂と着替えまで用意していただいて…」
「あはは やっぱり似てるわあ」
「?」
突然、裕美子が笑いだした
「あのね、貴方、若い頃のヒデ あ、秀之っていうんだけど、主人そっくりなの」
「は?」
「主人は気付いて無いけど、まるで親子、いや兄弟よ」
あの男の名は ヒデ と言うらしい
「そういえば貴方の名前、まだ聞いて無かったわね?」
「あ、タカユキと言います」
「そうかあ、じゃ タカさん、いやいや見た感じ年下だからタカちゃん かな」
「何でも良いですよ」
屈託無くけらけらと笑う裕美子を見て、いつの間にか自分も笑っていた 不思議と裕美子の前では素直な自分になれていた
「とりあえずお店行きましょうか」
古民家の勝手口から、隣接する食堂へ移動する
木造モルタル造りの食堂 アルミの引き戸の上には、大きな一枚板が掲げられ 立派な書体で 岩魚食堂 と描かれていた
「まだ早いよ…あ、裕美子か」
ウェーダー姿から作務衣風の仕事着に着替えた あの男 秀之が厨房から話しかけてきた
「お、今朝は本当に有り難うな あの竿は裕美子の竿なんだ」
秀之が自分の姿を確認するや、畳みかけるように話を続ける
「あのテンカラ竿は特別でね…」
秀之は饒舌だった 自身も若い頃は自分と同じように釣り三昧だったこと この地方、あの沢に魅せられてここに根付いたこと 裕美子はこの地で怪我をして入院した、地元の病院の看護師だったこと… 話を聞きながら相槌を打っている間に、いつしか秀之をヒデさんと呼び 自分はタカ と呼ばれるようになっていた
「さあさ、そろそろ開店よ」
裕美子が話を遮る
話に夢中になるあまり、時間を忘れていた ヒデさんは話しながらも仕込みを終え、店の入り口に向かう
軒先に 濃紺に白抜きで描かれた 岩魚食堂 の暖簾を掲げる
「タカ、何食う?」
自分が答える間も無く、ガラリ、とアルミサッシが音を立てた
「うどんと炊き込み」
数人が店内になだれ込み、馴れた所作でピッチャーからプラスチックのコップに水を注ぐ
「うどんと炊き込み」「うどんと炊き込み」
ほぼ全員が同じ注文だった ヒデさんが無言で厨房を動きまわる
「で?タカは?」
店内をぐるり、と見回し 一番の好物を品書きから見つけ出す
「じゃ、カツ丼を」
店内中の客が自分を見詰めていた
「あいつ、本気か?」
そんな囁きが聞こえてきたが、ヒデさんが言い放つ
「よし、半年ぶりのカツ丼一丁っ」
嫌な予感しかしなかった
裕美子は黙々と、付け合わせの漬け物を刻んでいた
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