「それじゃタカちゃん、ちょっと麓に買い出しに行って来るわね」
小上がりでの衝動的な行為で すっかり時間を忘れていた裕美子が、少々慌てた様子で地元ナンバーの軽トラに乗り込み、山道を降りて行った
「タカ、ちょっといいか?」
裕美子を見送っている自分の背後から、秀之が声をかけてきた 二人の望みとはいっても、やはり行為の直後に秀之と面と向かうのは気まずい それに、もし先程の行為を見られていたとすると、また拳骨が飛んでくるかも知れない…
「小腹が減ったんだ 一緒にうどん食うか?」
良かった、どうやら気付いて無いようだ
冷水でよく締めたざるうどんは、旨かった コシが有り、喉越しも良い
「今からちょっと沢へ行くが、付いて来るか?半年前の依頼品が丁度仕上がったんだ」
秀之は竿袋から一竿のルアーロッドを振りだした 正三角形の竹材を貼り合わせた、六角形のバンブーロッドだった 和竿以外も難無く仕上げる秀之の器用さに、感心した
「これは中国じゃ無く純国産の真竹で誂えたんだ…ガイドもメノウみたいな飾り気は無しで、Sicの超実戦向けだぞ」
釣りに関する話をしている時の秀之は、本当に少年の様だ
「タカのウェーダーもとっくに乾いてるし、行くか?」
「はいっ」
大急ぎでうどんを啜り込み、十分後には沢へ降りていた
「タカ、ちょっと振ってみろ」
竿先には5グラム程のスプーンが下がっている コルクのテネシーグリップにはアブのスピニングリールがテープで固定されていた
「スプーンなら丁度良いんじゃないですか?ミノーイングには少しバットが頼り無いけど、良い竿ですよ」
「生意気言いやがって、ま、その通りだけどな」
何度かキャストを続けていると、突然、グンと重さが伝わり 巻いていたリールの動きが止まった
「掛かった!」
竹の地色を生かした透け感の有る、褐色の曲線が美しい 先程は頼り無いと感じたバットが、しなやかに魚の引きを受け止める
「山乙女だ」
ランディングネットに納められた二十センチに満たない魚体には、まるで宝石を散りばめた様に美しい斑点が描かれている 渓流の女王とはよく言ったものだ
「おいおい、客より先に釣っちゃダメだぞ?」
言いながらも秀之は満足気に笑っていた
「いけね、店、忘れてた」
二時間程、代わる代わる最終確認をするという名目で釣りに興じていた秀之が呟いた
急いで店に戻ると、いつの間にか戻っていた裕美子が店の準備をしていた 遅れてきた秀之を叱るでも無く 仕込みをしながら話しかけてきた
「お帰りなさい 今日は釣れたの?」
ふんわりとした、優しい笑顔だった
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