(最近、エンジンの掛かりが悪いなあ…)
チョークを引きながらアクセルを吹かし、ようやくエンジンが始動した もうすぐ、冬がやって来る
あの沢へ向かう道すがら、ブナの原生林が見事な紅葉を見せていた 麓の街をすり抜け、山道の入り口へと、四駆が吸い込まれて行く
あれから三ヶ月、秀之と裕美子は元気だろうか… たった三日の奇妙な関係だったが、おそらく一生涯忘れない三日間だろう
ガラリと音を立て、食堂の扉を開ける 時刻は昼前 まだ暖簾は出ていなかった
「まだ早いよ…お?」
秀之が自分の顔を見るなり、厨房から飛び出してきた 手には包丁を握り締めている
「ひっ…すみませんっ、あの、妊娠させた責任は取りますから命だけは」
「?…ああ、勘違いするな、タカ、久しぶりだな」
包丁をカウンターに置くと、秀之は少年のような笑みを見せた
「手紙、届いたか?」
「ええ、それで様子を伺いに来ました」
正直、裕美子に会うのは少し気まずかった あれだけ身体を重ね、孕ませようとも、秀之を想う裕美子の心は奪えないし 裕美子を想う秀之の歪んだ愛には敵わない、そう感じていた
「それで、その…」
「ああ、今、台所に糠漬け取りに行ってる」
裏手の戸が開き、厨房の奥から裕美子が現れる
「あ、タカちゃん! 久しぶりね!」
相変わらずふんわりとした、愛らしい笑顔だ…
その時、食堂の扉がガラリと音を立てて開いた
「もうやってるか?」
時刻は丁度十二時を指していた 裕美子が慌てて暖簾を掲げ、ロクに話も出来ないまま次々と現れる客の応対に追われていった
「タカも昼飯、食うだろ?」
秀之がカウンター越しに話かけてきた
「あ、じゃあうどんと炊き込みで」
この店では色々な意味でうどんと、炊き込みご飯のおにぎりが一番人気だった
裕美子が近付いて来る 盆には熱い茶の入った湯呑みが乗っていた 裕美子は微笑みながら湯呑みを目の前に置き、他の客に聞かれぬ様にそっと囁いた
「お帰りなさい、パパ」
口に含んだ熱い茶を、全部噴いた
「な、いきなり何をっ」
「汚いな、タカ、自分で拭いとけよ?」
厨房から布巾が飛んでくる 裕美子はケラケラと笑っていた
「で、夜は何処に泊まるんだ?家は空いてるぞ?」
暖簾を下げ、器用に手の内でタバコを丸めながら秀之が問いかけてきた 裕美子を孕ませた時点で自分の役目は終わっている、今からまたすぐに帰ることを告げた
「また、頼みが有るんだよ、タカ…」
秀之の顔が一瞬、暗い表情を見せた 洗い場で片付け物をしていた裕美子が、手を止めてじっと自分を見つめていた
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