古民家へ戻る車中、二人は無言だった
夏とはいえ、沢の水流や飛沫が辺りの空気を冷し、肌寒い位だ
食堂の駐車場に車を着け、エンジンを切る
「明日、帰ります」
沈黙を破ったのは自分の方からだった 裸体に自分のシャツを引っ掛けた裕美子が、助手席から自分を覗き込む
「どうして?まだ休みは有るでしょう?…私が悪いなら謝るから、この身体もタカちゃんの好きにして良いから…」
「ね?主人だってタカちゃんを弟みたいに思ってるのよ?食堂のお客さんもタカちゃんのご飯は美味しい美味しいって…」
「身体じゃ駄目なんですよ」
「?…」
「とにかく、明日帰るんで…」
いつの間にか、自分も裕美子に惹かれている事は自覚していた だから、裕美子にのめり込んでしまう前に、二人から離れなくては…
皆が皆、一番欲しいものを手に入れることを望み、叶わず、もがいていた…
翌朝起きると、また裕美子と秀之の姿は無かった 昨晩あれだけ自分に抱かれていても、裕美子は秀之を求めるのか… 気が狂いそうな負の感情に押し潰される前に、帰ろう…
古民家の勝手口の戸を静かに閉じ、昨晩、雑に駐車場へ着けた四駆に向かう
「おう、タカ、ちょっと来い」
食堂の扉がガラリと開き、秀之が顔を出した
「挨拶も無しか?こら」
「あ、おはようございます」
「そういうことじゃ無いだろう、ちょっと入れよ」
早朝だというのに、厨房には火が入り、寸胴からは湯気が立ち上っていた 仕事着姿の二人が、並んで立っていた
「タカちゃん、おはよう」
「あれ?裕美子さんも?」
例の、岩影での秘め事をしている筈の二人が、目の前に、居た
「今朝な、裕美子が作業場に来て言うんだよ…あの気持ちが今朝は無いの…ってな」
裕美子が秀之の後ろに回り、恥ずかしそうにしている 秀之の肩口から半分顔を出した裕美子が口を開いた
「タカちゃんのお陰、なのよ…」
少女期に暴漢に襲われ、恐怖感と性的興奮の区別が付かなくなり、あの場所でひたすらに自慰や淫らな行いを続けるようになった裕美子…その心の奥底には、本当にあの場所で襲われてしまいたいという、歪んだ願望の表れだった
「タカちゃんに本当にあの場所で滅茶苦茶にされたら、なんだかスッキリしちゃった」
裕美子の顔がみるみる赤くなっていく
「でな、タカが帰るって言うもんだから、せめてうどんでも食わせて帰らせようと思ってな…後、こいつも間に合って良かったよ」
秀之の手には、美しい楕円を描いた、手製のランディングネットが有った
「お前さん、裕美子の竿を拾ってくれた時にネット落としたろ?これはその詫びだ、使ってくれよ」
ネットの柄には、四角に「秀」の一文字が刻まれていた 不覚にも、泣き出してしまった
「ヒデさん、裕美子さん、自分…」
「泣くやつが有るか、いいからうどん、食え」
三ヶ月後、一通の手紙がポストに投函されているのを見付けた 季節は秋を過ぎ、あの沢もとっくに禁漁期に入っていた
(〇〇県?誰だろう…)
六畳一間の安アパート、部屋には釣具が散乱しているが、あのランディングネットだけは誇らしげに壁に飾られている
手紙は秀之と裕美子からだった お目出たらしい、と手紙に書いてあった
裕美子は妊娠していた 久々にまた、あのうどんを食べたくなった自分は 週末を待って車をあの沢へ走らせていた
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