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藤川透は、居心地わるそうに苦い顔をくり返していた。上からの指示とはいえ、自分一人をここへ来させたことに対し、なんて身勝手で不公平な人選なのだろう、と不満を感じていたからだ。
とはいえ、いまテーブルを挟んで向き合っている相手は、全身に憂いを纏ったとびきりの美人なのである。
いつか信号待ちのときに見かけた美しい女が、こうして自分の目の前にいる。
「あのう、ええと、花井香純さん。あなたのご主人、孝生さんのことについて、いくつか質問させてください」
藤川は生唾を飲み込みながら、露骨に動揺を見せていた。
「私のわかることでしたら」
香純は伏し目がちにそう応えた。そしてティーカップに手を伸ばし、ロイヤルミルクティーで喉を潤した。
ここは女性客が多いことで有名な喫茶店のため、平日の今日、こうやってコーヒーを飲んでいる男性客は藤川一人だった。
「ご主人を亡くされたばかりだというのにお呼び立てして、どうもすみません」
「いいえ、そんな。私としても、主人をあんなふうにした犯人を、一日も早く捕まえて欲しいのです」
このときになっても、香純は顔を上げようとはしなかった。その視線はテーブルに注がれている。
「その犯人についてですけど、そういう人物に誰か心当たりはありませんか?」
「心当たり、ですか」
「ええ。例えばそうですね。ご主人の周辺で、あなた以外の女性の気配があったのかどうか、という意味ですけど」
藤川のこの問いに、香純は即答できないでいた。
微かに半開きになった口元に、花井未亡人の白い前歯が見えた。
「なければないで、そう言っていただければ結構です」
「私の知る限り、あの人は女性にだらしない性格ではなかったように思います」
「それじゃあ、金銭的なトラブルは抱えていませんでしたか?」
「ありません」
そこで香純は鼻の下に指を添え、ぐすっと鼻を鳴らし、恥ずかしそうにお辞儀した。
植物のように優美なその仕草は、藤川の脳に鮮烈な印象をあたえた。
「花粉症を患っているので」
と彼女から告白され、藤川はようやく自分の誤解に気づく。泣いていたわけじゃないことを知り、安堵とともに鼻息をついた。
「我々もこういう仕事をしていると、人に嫌われることのほうが多くて。そのあたりはご容赦ください」
藤川がなめらかにそう言うと、水を得た草花のように香純がゆっくりと顔を上げる。そして相手の目を真っ直ぐ見つめ、
「藤川さんは、優しい方なんですね」
と微笑んだ。
今日初めて目を合わせたこの瞬間、藤川は口の中に甘酸っぱいものを感じた。心拍数が急激に上がっていくのがわかる。
「えっと、話を戻しましょうか」
心の内を見透かされる前に、藤川は慌てて目を逸らせた。
「私、怖いんです」
香純の細い声がした。
藤川がそちらに目を向けると、
「あたりまえに有ったものが欠けてしまって、心寂しいというか、物足りない感じがするんです」
と香純が訴えかけてくる。その気持ちは藤川にもよくわかった。
「女性が独りで暮らしていくとなると、何かと心細いでしょうね」
「はい。両親も早くに亡くしていますので、いまは頼るところがなくて」
香純は一度、目を伏せた。睫毛の束が下を向くと、その長さがいっそう際立つ。
こんなふうに対座しているだけで、いよいよ大人しくしていられなくなる予感がして、藤川は話を切り上げようと手帳を閉じた。
「もうご存知かと思いますが、じつは昨日、早乙女町の公園でちょっとした事件がありまして」
喋りだした紳士の話に興味を示し、香純は頷いた。
「あなたとおなじくらいの年齢の女性が、そこに棄ててあったごみ袋の中から全裸の姿で発見されています。しかも彼女、どうやら強姦された後だったようです」
「知ってます」
香純の瞳に軽蔑の色が浮かぶ。
「夜に外出しなきゃいけないことだってあるでしょうから、花井さん、あなたも気をつけたほうがいい」
言いながら藤川は下心を隠していた。
「いいんです」
と香純は言った。
「どうせ私なんかが襲われたって、気にかけてくれる人は誰もいませんから」
「いけません!」
藤川は声を上げた。客の何人かがこちらを注目している。
「すみません、大声を出してしまって。けど、あなたがそんなことを言ってはいけない。これからあなたはご主人の分まで、ちゃんと生きて行かなきゃならない。自分を粗末にしないでください。少なくとも俺は、あなたという人間に興味があります。だから叱ります」
失礼します、という台詞を置いて、藤川は席を立った。
一人残された香純は、空になった目の前の椅子を茫然と見つめていた。
*
レジで支払いを済ませて店を出ると、いきなり頭上から冷たいものが降ってきた。傘を持ち合わせていないことに気づき、藤川はしかめっ面で空を仰いだ。
まったく、雨が降るなんて聞いてないぞ。これだから雨男は困る──。
彼は自虐に浸った。するとその頭に黒い傘がそっと差し出され、
「風邪、ひいちゃいますよ」
と背後で声がした。振り返るのが躊躇われるほど、その声には誘惑の甘みが漂っていた。
藤川はゆっくりとした動作で、体をそちらに向けた。彼の期待した通りの美しい未亡人が佇んでいた。
雨はまだ降り始めたばかりらしく、傘を打つ音にも激しさがない。
じっと見つめ合ったまま黙り込む二人。
やがて、重要なことを告げようとしている香純の雰囲気を察して、藤川は半歩だけ前へ出た。そして香純の紅い唇に注目していると、そこからとんでもない事実が漏らされた。
「私、じつは………………なんです」
こんなときに限って、春雷による稲光と雷鳴が、ごうごうと辺りを包み込んでしまった。
それをきっかけに雨足は強まり、しだいにアスファルトを煙らせていく。
しかし藤川は確かに聞いた。花井香純という女がほんとうに言いたかった、その言葉を。
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