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◇
「リーチ!」
もう何度も聞いたその声に、場の空気はすっかり諦めムードに変わっていた。
「またかよ。お姉さんには適わないなあ」
「ビギナーズラックもここまでくると、実力に思えてくるぜ」
「そのリーチ、ちょっとだけ待ってもらえないかな?」
そうやって面子の男らの弱音が一巡すると、
「麻雀て、思ってたよりも簡単なんですね」
と青峰由香里(あおみねゆかり)はピンク色の舌先をぺろっと覗かせた。
初めのうちこそ七対子(チートイツ)あたりの比較的あがりやすい役ばかりを手持ちにしていたが、そのうちに跳満や倍満を連発するようになり、ついには役満まで披露してみせたのだ。
由香里にしてみれば、これで面白くないわけがない。
この雀荘に足を運んだのは、今日で二度目だった。
たまたま知り合った主婦と世間話をしているうちに、お互いの育児疲れのことや、旦那に対する愚痴などで馬が合い、腹の中に溜め込んだ日頃のストレスを大いに発散したのだ。
「もっと楽しいストレス解消法があるんだけど」
そう言ったのは相手の主婦のほうだった。どういうものかと訊いてみれば、うまくいけば小遣い稼ぎもできるということで、由香里はなにも考えずに二つ返事で話に乗ったのだった。
まだまだ手のかかる子どもは一時保育へあずけ、家の金を勝手に持ち出し、その主婦と二人して麻雀に浸った。
どうせ勝てないだろうと予想していた通り、その日の成績は散々なものだった。
それでも局の中盤ぐらいの一時、由香里が有利になる場面もあったりして、自分の知らない世界を垣間見れたことに興奮とスリルを覚えていた。
そして今日、由香里は一人でこの雀荘を訪れ、前回のリベンジを果たすべく手に汗握っているのだった。
しかし先ほどの由香里のリーチ告知の直後から、面子の誰もが口々にする台詞の語尾に、どこかきな臭いものが混じっているような気がしていた。
そんな不穏な気配を秘めたまま、東、南、西の男らがそれぞれの牌を切り終え、いよいよ由香里がツモる番になった。
彼女が流れを呼び寄せているのは間違いなかった。
牌の山から一枚取り、手首を返して、由香里はあからさまにがっかりしてみせた。
そして面子の誰もが注目する中、
「ツモ!」
と宣言して目を輝かせた。たちまちギャラリーが沸く。
「また勝っちゃった。あたし、今日はすごく調子がいいみたい」
由香里は胸の前で小さく手を打った。
たった一人の女相手に、大の男が三人ともに負け越しを喰らっている。
今日は久しぶりに家族で外食に出かけられそうだと、由香里はそんな淡い幸せに酔いしれていた。
「そのツモ、ちょっと待った」
彼女の対面に座っていた髭面の男が、唐突にそんな言葉を発した。
その両脇でさっきまで白旗を振っていた二人にしても、この場面では口のはじに気味の悪い笑みを浮かべている。
由香里は事態を呑み込めずにいた。
「あたし、なにもしてませんけど」
気圧されないように精一杯声を張り上げたつもりが、つい力みすぎて変に裏返ってしまった。
「それじゃあ、これを見てもまだ白けつづけるつもりか?」
この言葉を合図に、由香里以外の三人が同時に牌を倒して、手の内を明かした。
一見して、なんの意図もないただの出来損ないの手に見えたが、しかしそこには、あってはならないものが確かに存在していた。
「お姉さんがいまツモった一筒(イーピン)、俺らが四枚とも抱えてんだよ。いかさましたね?」
「そんなこと……」
と言ったきり、由香里はわなわなと口ごもってしまった。鴨にも葱にもなるつもりはなかったが、言い返すべき文句が何一つ思い浮かばなかったからだ。
「由香里ちゃん、だったよね?ここらではっきりさせておこうよ」
と右側の茶髪の男が言うと、
「その体のどっかに、ほかの牌も隠してんじゃねえの?例えばそうだなあ、下着の中とか?」
と示し合わせたように、左側の猪みたいにずんぐりした男もにやつく。
由香里は反射的に立ち上がり、口をかたく結んで目を潤ませた。そして恐る恐るまわりを見渡してみて、そこに居合わせた全員の視線が、漏れなく自分に注がれていることに気づく。
罠だ──と直感したときにはもう手遅れだった。
都合のいい女を餌にしようという陰気な空気に包まれる中、博打の勝者になるはずだった由香里は、強面(こわもて)の三人に連れられて雀卓をあとにした。
彼女の腰からぶら下がったラビットファーのストラップが、寂しげに尻尾を振っていた。
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