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娘の名誉を守る為に、三枝伊智子は二つの命を絶った。
一方の花井香純は、二人の女性を罠に嵌めはしたものの、誰の命も奪わなかったのだ。
つまり香純が起こした一連の行動は、すべての疑惑の目を自分一人に向けさせる為のものだったわけだ。
それから、藤川透のバックにある犯罪組織の影は、大上次郎もろとも行方を眩まし、そのネットワークさえも遮断された。今回もまた、その存在を公にすることができなかったのだ。
「でも良かったですね」
晴れ晴れしたふうに五十嵐は言った。
「あの母子のことか?」
北条が返す。
「あのときはどうなることかと思いましたけど、花井香純が気を失った原因が、多量の鼻炎薬を一度に飲んだことによるものだったなんて。俺、焦っちゃいましたよ」
「俺もだ。もしあれが毒性の強い薬だったとしたら、俺たちは刑事失格だな。どうだ、反省会でもやらないか?」と北条は手でお猪口(ちょこ)を真似てみた。
「いいっすね」と五十嵐の目が輝いた。
彼らは病院の中庭を歩いていた。これだけ暖かい日がつづけば、相当量の花粉が飛んでいるだろうと北条は思った。
それでもこうやって普通でいられるのは、自分の免疫力が強いか、もしくは鈍感な構造にできている証拠なのだろう。
くしゅっ、と五十嵐がくしゃみをした。
「まさか、五十嵐も花粉症か?」
「こう見えて俺、あちこちで噂になってるんですよね」
「いい噂を聞いたことがないんだがな」
北条に言われ、五十嵐は顔を酸っぱくして笑った。
*
薬品臭い部屋の中にいた。そこで行われたのは、堕胎手術と子宮摘出手術だった。全身麻酔によって眠っているはずなのに、脳は覚め、内臓をいじくり回す誰かの手の感覚すら鮮明だ。
やめて欲しいと言うつもりでいたが、それは言葉にならなかった。声が出てこないのだ。
そのうちに果物の甘い芳香が漂ってきて、ついでに懐かしい匂いまで混じるようになった。
花井香純が病室のベッドで目覚めたとき、隣に母親の姿を見つけた。まだ記憶がぼんやりとしていて、自分たちがここにいる理由がわからない。
「お母さん」と香純は言った。
おもてを上げた三枝伊智子は、目尻を下げながら腰を伸ばし、「これ、食べるわよね?」と手元を香純に見せた。
右手に果物ナイフ、左手には林檎が乗っている。
香純は頷いたあと、刑事はどこにいるのかと訊いてみた。すると母親は、外に待たせてあるんだと応えた。加えて、香純がこの病院に搬送されるまでの出来事も話した。
我が子を見舞うことができるのも、きっとこれが最後になるだろう──。
そんな名残惜しい思いを表情から消し、伊智子は林檎を剥いていく。そして半月状に切った実を小皿に盛り、香純に差し出した。
窓から入る日差しが、二人の影を床に落としている。
それはまるで、白雪姫と魔女という、因縁の組み合わせを描いているようだった。
◇
おわり
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