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このとき北条は、玄関先に人の気配があるのを感じた。そして何気なくそのこと香純に悟らせ、彼女を玄関に向かわせた。
そのあいだに自分は、彼女がした淫らな行為の痕跡を消しておく。
「お母さん」という声が間もなく聞こえてきた。香純のものだ。
北条がそちらに向かうと、五十嵐に付き添われた婦人が目に入った。花井香純の母親、三枝伊智子その人だった。
さすがにこの場面では化粧を控えてはいるが、それなりの支度を整えれば、十は若返りそうな気がした。
母と娘は互いの体を支え合い、涙混じりの言葉を囁きながら仏間へ上がる。二人そこで泣き崩れると、香純は、どうして、どうして、とくり返すばかりである。その背中に北条は言った。
「花井孝生を殺害したのは、三枝伊智子さん、あなたですね?」
とうとう迎えたこの瞬間に、三枝伊智子の呻きが大きくなった。
直後に北条のポケットが震えた。
「俺だ。……うん、……そうか、……わかった、……ご苦労さま」
北条が携帯電話を仕舞うと、隣の五十嵐が視線をよこしてきた。
「三枝伊智子さんのアパートを捜索したところ、我々の睨んだ通りの物が出てきたそうです。血痕の付着したナイフ。それと黒い傘、黒いウインドブレーカーとズボン、それらにも血液が付いていたとの報告を受けました」
沈む二つの背中に北条が告げた。
向こうで話しましょう、と五十嵐が皆を促した。
四人がリビングに集うと、三枝伊智子が先に口を開いた。
「悪いことをするのは私一人でじゅうぶんだと、娘に言い聞かせました。あの父親も悪かったんです。一族の血を汚すような行為をするから、香純がこんなふうになってしまって、結局私の手も汚れてしまいました。もうおわかりだと思いますが、いちばんの被害者はこの子です。どうか救ってやってください。お願いします」
頭を下げる母親のそばで、香純は自分の口元をハンカチで覆った。だいぶ白髪も増えてきたのだと、母の老いを思った。
「伊智子さん。あなたの夫である三枝靖晴(さえぐさやすはる)さん、つまり香純さんの父親ですが、ずっと行方がわからないままだと我々は聞いています。捜索願は、十年以上も前にあなたが出している。一体どこにおられるんでしょうか。生きているのか、あるいは──」
そう言った北条の目が熱を帯びていることに伊智子は気づいた。
香純が袖にしがみついてくる。黙秘は無意味だと自覚し、その痩せた唇を動かした。
「なかなか働いてくれない主人でしたから、昼も夜も私が仕事をしていました。香純がまだ小学生の頃です。あるとき家に帰ってみると、主人と娘が布団の上で揉み合っていました。酒に酔った主人が、娘を犯していたのです」
話を聞いていた香純は堪らなくなり、声を枯らしながら席を外した。
それを追うでもなく、伊智子は続けた。
「そんなことが何度かあって、私は役場に相談してみました。そのときこそ反省の色を見せていた主人でしたが、私の目の届かないところでは、やはり乱暴をくり返していたのです。警察に届けることも考えましたけど、逆恨みされるのが恐くてできませんでした」
こんな現実があっていいのかと、五十嵐は顔を険しくした。
「日に日に弱っていく香純の身を案じ、私は決心しました。主人が林檎を好きなのを知っていたので、それを利用しました。毎日欠かさず主人に林檎を出しました。あの人は飽きもせずに林檎を食べつづけました。そうしてある日、主人は口から泡を吹いて倒れ、そのまま息絶えました。私が林檎に仕込んだ微量の薬物が、主人の体内で致死量にまで蓄積されたのです。私と香純の目の前で亡くなったあの人のことを山中に埋めたのも、私です」
これまでの積年の思いを吐き出したことで、伊智子の表情からは毒が抜けて見えた。そして香純が戻ってくると、二人して手を取り合った。
すべて終わったのだ。後のことは警察に任せればいい。
そんな空気が迫りつつあったとき、突然、香純の身に異変が起きた。膝から崩れ落ちる様子がスローモーションで再生されているように、それは北条らの目にも明らかだった。
一度は床に手を着き起き上がる意思を見せたが、それも適わず、白雪姫の如く美しい肢体を伏せていった。
五十嵐がその顔色を窺ったとき、彼女の鼻から血がつたい落ちた。
北条は咄嗟にキッチンへ向かい、ダイニングテーブルの上に真っ赤な林檎を見つける。かじったところがまだ新しい。
ちっ、と舌打ちをしてからの行動に猶予はなく、誰からともなく救急へ通報したり、呼吸や脈拍を確かめたりと、すべてが早足で繰り広げられていった。
けれどもそこに居合わせた誰もが、とてつもない無力感に苛(さいな)まれていただろう。
血の気の引いた香純は、ただただ、母の腕の中で無言を守っていた。
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