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あれから十分ほどが経過している。
まさかとは思いつつ北条が腰を上げたとき、変わりない姿の香純がコーヒーを持ってきた。
「今度はブラックにしておきましたから」
「それはどうも」
言って北条は自分の嗜好を見抜かれたことに対し、女性の観察力の鋭さを思い知った。
綺麗に見える一輪の花の中にも、蜜を分泌する花もあれば、毒を分泌する花もある。
果たして北条はカップの中の苦い汁を一口だけ啜り、ふたたび語りだした。
「さっきお話ししたことには続きがあります。花井孝生を殺害したであろう人物を目撃したのは、ある大手銀行に勤める月島麗果という女性でした。彼女は後日、銀行窓口に訪れた女性客に相談を持ちかけられました。近いうちに大金を相続するので、その運用についての相談だったようですが、ついでのつもりの世間話をしているうちに、ホストクラブの話題が出たようなのです。まあ、そこでいろいろと話し合った末に、女性客に薦められるまま月島麗果は一軒の飲食店に向かうわけですが、なぜだかそこで犯罪に巻き込まれてしまったのです」
香純が斜め下を見つめているので、北条はしぜんと彼女の口元に目をやった。唇の凹凸に異性を感じた。
「花井孝生の殺害現場を見られたと思った犯人が、ふたたび闇サイトを利用し、月島麗果を辱めるよう仕向けたのです。青峰由香里のときと同様にね」
「それも私がやったことに?」
「その女性客が来店したときにはマスクをしていたんですが、相談窓口に座った途端、マスクを外したようです。そこで月島麗果にあなたの顔写真を見てもらいました。花井香純さん、あなたに間違いないと彼女は断言しました」
喋り過ぎたので、北条はコーヒーカップを煽(あお)った。そして軽く咳払いをする。
「銀行の防犯カメラの映像にも、確かにあなたが映っていました。あの女性客の話を信用したせいで、自分は乱暴されたのだ──そんなふうに月島麗果の中で、点と線が繋がったのです」
「そう思われても仕方がないですよね」
香純は微笑した。しかしそれは無防備なものではなく、警戒心を悟らせないための作為を含んで見えた。
「罪を認めますね?」と北条は言った。
「あの人が悪いんです」と香純は応えた。
「私に隠れて、ほかの女の人と体の関係を持つなんて、妻として許せませんでした。だから私が夫を、それから相手の女性にも復讐したのです。現場を見られたのは迂闊でした。だからあの銀行員の女性に罪はありません」
「そうおっしゃった上でお訊きしますが、あなたがアクセスした闇サイトの住人、彼らの顔や名前をご存知ですか?」
「いいえ」
香純は表情を曇らせた。
「じつは、ある犯罪組織のメンバー数名がサイト管理を担当していたわけですが、そのうちの一人は大上次郎という男、そしてもう一人が藤川透だと判明しました」
まさか、という台詞を香純は呑み込んだ。
「それじゃあ、藤川さんが彼女たちを襲ったんですか?」
「そうではありません。彼らはただの仲介役です。青峰由香里と月島麗果を客に引き渡し、そこから先は客の意思に委ねるわけですから、レイプの実行犯は客の男ということになります」
それを聞いて、香純は少し気を緩めた。それはつまり、さっきまで気が張りつめていたということだ。
藤川透のことを思うと、時々こういうことが起こる。たとえ犯罪組織の人間だろうが、彼の本質は別のところにあるのだと、香純はそう思えてならなかった。
「失礼なことを窺いますが」と北条は前置きした。
「香純さん。あなた、父親にまつわる暗い過去を持っていますね?」
刑事の向かいで、ついに来たか、と香純は体を萎縮させた。
「我々は、『聖フローラル学園』という児童養護施設を訪ねました。あなたが幼少の頃にあずけられていた場所です。残念ながら、当時の園長はもう亡くなられていましたが、園長からあなたの話を聞いたという女性職員に会えました。そこで初めて知りました、あなたが実の父親から性的暴行を受けていたということを」
聞き手として、話し手として、もっとも辛い状況に直面していた。
「更にそのときの行為が原因で、あなたの腹部には醜い痣が残ってしまった」
北条の視線が気になり、香純は自分の腹部に手を添えた。
「ところがここでもう一つ、新たな事実が浮上してきたのです。あなたは周囲に、早い時期に両親を亡くしていると言っていた。しかし女性職員は、父親はともかく、母親は健在だと明言した。その証拠に、あなたの母親から毎年のように寄付金が届いていると、その封書を我々に見せてくれました。これについて、あなたから言えることがあれば、是非とも聞かせて欲しいですね」
香純は無言のままでいたが、微かに首を横に振った。まさしく喪中の未亡人の姿だった。
「父親は行方不明で、母親は生きている。これを踏まえた上で、我々はもう一度今回の事件を振り返ってみました。ここでふたたび登場するのが、藤川透です」
瞬間、香純の顔が悩ましく歪む。その名前を耳にするだけで、体がかっと熱くなるのだ。
「あなたは、藤川透が刑事であると疑わないまま、彼を自宅に招き入れ、ついにはその肌さえも露出した。もちろん性交を果たすためにです。しかし彼はそれを辞退した。家族のある身なら、それが当然と言えるでしょう。それでもあなたは退かなかった。インターネットの通信販売でアダルトグッズを購入していることを告白し、実物を彼の目に触れさせた。淫らな女だと印象づけるためにです。ほんとうのあなたは、そこまで貧しい心の持ち主ではないと我々は信じています」
北条はこのとき、脇の下にじんわりと湿気を感じていた。追い詰めていたはずの容疑者が、挑むような目でこちらを見ていたからだ。
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