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刑事の口調は柔らかだった。けれどもそこから告げられた言葉は、香純の胸を動揺させた。
この瞬間から自分は容疑者になったのだと、いままでに味わったことのない味覚が口に広がった。いや、正確にはもっと前から疑われていたのだ。
「刑事さんがいま言ったこと、矛盾してませんか?」
「と、言いますと?」
「だって私は、主人とその女性の仲を知らなかったんですよ?それに、女の私がその相手の方を襲ったというのは、少々無理があるように思います」
香純が言ったあと、北条は余裕の笑みを浮かべた。
「ほんとうにそうでしょうか。じつはあなたは、ご主人の浮気に気づいていたのではないかと我々は考えています。孝生さんに裏切られたと思ったあなたは、まず夫を殺害し、その次に浮気相手の青峰由香里に制裁を加えようと考えた。しかし非力な自分ではハードルの高い作業になる。そこで思いついたのが、インターネットの闇サイトだった」
「北条さんは、想像力が豊かな人なんですね」
香純はあっさりと言った。
「不貞行為を働いた二人のことを、あなたはどうしても許せなかった。だからこそ、夫への復讐だけは自分の手でやり遂げたいと、あなたは強く誓ったのでしょう。そして計画を実行した」
北条が真摯に言えば言うほど、いよいよ香純の顔から笑みが消えていった。
「花井孝生が殺害された日の午後十一時前後、あなたは自宅に一人でいたと前におっしゃった。ようするに、あなたにアリバイはなかったということです」
自分の口臭がコーヒー臭いことに北条は気づいた。だが構わずに続けた。
「さらにその時間帯に、現場方向から歩いてくる不審な人物を見たという目撃情報を得ました。雨も降らないのに黒い傘を手にし、服装も上下とも黒かったと聞いています」
「そんなに疑うのなら、この家を調べていただいても構いません。黒い傘と服なんて、どこにでもあると思いますけど」
「その必要はありません。おそらくそれらは被害者の返り血を浴びているでしょうから、凶器と一緒にどこかへ棄てたと考えるのが正しい」
刑事の指摘に納得しながらも、香純はそれをおもてに出さないように努めた。
「当然、彼が勤めていた警備会社もあたってみたわけですが、それがおかしなことに、おなじ工事現場に向かったはずの誰もが、彼が殺害されるところを見ていないと言うのです。香純さん、あなたはこれをどう思われますか?」
そうやってずるいことを企んでいるような顔をする北条に、香純は何故だか母性本能をくすぐられた気がした。
「それは、主人が一人になる瞬間を、犯人が狙ったんじゃないでしょうか」
「我々もまったくおなじ意見です。しかし考えてみてください。孝生さんがいつ一人になるのかわからないのに、犯人は物陰に身を潜めて、ずっとその瞬間を待っていたのでしょうか。そのほうが返って目立ってしまうと思いませんか?」
「ええ、まあ」
「そこでこう仮定しました。犯人は、彼が一人になる時間帯を把握していたのです。あの日、孝生さんの死亡推定時刻である午後十一時頃、じつはほかの作業員らは彼を一人残して休憩していました。そしてそのことを彼自身が家族に話していたのなら、やはりあなたには犯行が可能なわけです」
北条は一度、相手の様子を窺ってから、声の加減を微調整した。
「おもての駐車スペースに停めてある白い軽自動車、あれとよく似た車を、殺害現場近くで見たという証言もあります。それは孝生さんの会社の同僚の方から聞きました」
「そうですか……」
聞き逃してしまいそうなほどか細い声で、香純は呟いた。諦めというより、こうなることを望んでいたような顔色だった。
「私がどれだけ否認しても、北条さんは私を疑い通すつもりですね?」
「もちろんです」
北条は言いながら、手持ちのカードをすべて見せようと身構えた。
「ここで一つ確認させてください。香純さんは花粉アレルギーをお持ちですね?」
「藤川さんから聞いたんですか?」
「そうです。孝生さんの浮気相手である青峰由香里がこう証言しています。たまたま知り合った主婦に誘われて、ドラゴンヘッドという雀荘に行った。そしてそれが原因で、自分はレイプ被害に遭った、とね。彼女は最初、家族に内緒で賭事に手を出したという後ろめたさから、レイプの事実を否定していました。我々は粘りました。そしてようやく事件性を認めたとき、その主婦の特徴として、マスクをしていたと言っています。これは、雀荘のマネージャーである馬渕という男からも聞けました」
「私がそのときの主婦で、そして青峰由香里という女性をそそのかしたと、そう言いたいんですね?」
「問題はそこです」と言ったあと、北条はコーヒーで口を湿らせた。
花井未亡人の憂い顔は、相変わらず可憐なままだ。
「彼らにあなたの顔写真を見てもらいましたが、やはりそのときの主婦がマスクをしていたからでしょう、『似ている』としか言いませんでした」
それはそうだろうと香純も思った。
「とにかく、こうして犯人の計画通り、花井孝生には自ら手を下し、青峰由香里には闇サイトの住人によって辱めを果たすことができたのです」
「私のところに多額の保険金が下りてくることも、警察は知っているんでしょう?」
香純が上目遣いに言うと、当然とばかりに北条が頷く。
香純は思案する素振りをし、「私も喉が渇いたので、少しだけ失礼します。コーヒーのおかわり、お持ちしましょうか?」と訊いた。
「いただきます」
北条は行儀良く応え、キッチンに消えていく女のしとやかな後ろ姿を見送った。その背中に悪意が漂っていたのなら、すぐにでも彼女を呼び止めるつもりでいた。だがその必要はなさそうだ。
北条は、こういうときの自分がいちばん嫌いだった。なにかにつけて相手を疑い、プライバシーに風穴を空けてそこを徹底的に調べ上げる。その中からこちらが有利になるものだけを選別し、鬼の首を取ったつもりになるのだ。
手柄などというものに興味はない。ただし、警察の人間による不祥事が続いている現状を見れば、自分だけは、という揺るぎないものが必要になってくるのだ。
人命が関わっているだけに、どうしてもデリケートにならざるを得ない部分もある。
そう考えると、自分はまだまだ刑事として未熟だな──と北条は自嘲した。
そんなとき、キッチンに向かったはずの花井香純がまだ戻らないことに気づいた。
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