12―2
◇
「上層部の人間からの指示で、花井香純という女性の査定を任された俺は、彼女と対面した途端に鉄の仮面を剥がされました。分かり易く言うと、自分を見失ってしまったんです。柄にもなく相手の女性を意識し、緊張して、あっという間に彼女の中に取り込まれた。主導権を奪い合うような駆け引きをする気にもならなかった。人間としての魅力に欠ける自分と、先天的に魔性の部分を持って生まれた彼女とでは、そういう対象にすらならないと思い知ったんです。そうしてその日の別れ際に、俺は彼女の口からとても残酷な事実を聞かされました。それは彼女がまだ小学生だった頃に、実の父親から性的暴行をくり返し受けていたというものでした。俺、もう、どうしたらいいのか、わかんなくて、だから」
藤川は言葉を詰まらせた。そして体力を消耗したときのように肩を落とし、うなだれたかと思えば、また勝手に話しだす。
「気がついたら俺は香純さんの家にいた。雨に濡れた上着をハンガーにかけると、自然とそういう雰囲気になって、俺は彼女の唇を奪いにいった。その華奢(きゃしゃ)な肩を抱き寄せて、濡れた前髪を指で払った。彼女の瞳は潤んでいた。キスをする前にシャワーが浴びたいと、香純さんは恥じらいながら言った。彼女が済んだら、入れ替わりで俺もシャワーを浴びた。そうして彼女が待つ部屋に足音を忍ばせて行くと、俺の上着を探る香純さんが目に入った。何故だか彼女、俺の警察手帳をまじまじと眺めていたんです」
そこで藤川は視線を北条に向け、しかとを決める刑事に回答を求めた。
もちろん反応はない。
今更そんなことはどうでもいいか、と藤川はふたたび回想に入った。
「ついに彼女と交わるときが来て、俺が先に裸になり、それから彼女が脱いだ。そこで俺は見ました。彼女の腹部に赤く残る、痛々しい痣を。父親にレイプされたときについたものだと、香純さんは恨めしそうに言いました。この人を汚しちゃいけない、そう思い直した俺は、そこから先を辞退したんです」
「ほんとうに、何もなかったと言うんだな?」
そう尋ねる五十嵐に対し、藤川の首が縦に動いた。そして、
「そんな彼女が、自分の旦那を殺めるなんて真似が出来るわけがない。俺はそう信じたいんです」
と眉間を寄せた。
「花井香純について、ほかに何か気づいたことがあったら喋っておくといい。君が彼女を思う気持ちに嘘がなければね」
北条が温厚な調子で促してくるので、藤川は負け惜しみっぽく微笑んでみせた。
「これは真面目な話ですけど、香純さん、アダルトグッズをたくさん持っているんだって、それを俺に見せてきたんです。寂しくなるといつも、そういう物に頼ってしまうそうです。父親に犯された経験のある彼女に限ってまさかとは思ったけど、旦那が亡くなる以前からたまに通販サイトを利用して、密かに買っていたらしいです」
「君はどうリアクションしたんだ?」
北条も真面目に聞き返した。
「いいえ、とくに、なにも」
「なるほど」
「でも、何ていうか、いつも使っているにしてはどれも新品みたいに見えたし、独りで行為に耽っている香純さんの姿を想像しようとしても、彼女の清純な雰囲気が邪魔をして、どうしてもイメージが湧かなかった。おそらく彼女は嘘を言っている」
「君がそう言うのなら、多分そうなんだろう」
北条は聞き出す姿勢を変えないでいる。
「あとそういえば、花粉症を患っているんだと言ってたことがあったな。毎年この時季になると、市販の鼻炎薬を服用しているようです」
「それも一応、頭に入れておこう」
「俺から言えることは、大体それぐらいです」
言い終えたあとの藤川のため息は、部屋にいた皆の耳にまで届いた。失恋したときの感傷に浸る青年のように、いまの彼はとてつもなく弱々しく見えた。
藤川透から聞き出したいくつかの事を北条は反芻してみた。花井香純が実父に貞操を汚されたことについては、児童養護施設の職員の口からすでに知らされている。
注目すべき点は、花井香純の腹部に残るという赤い痣のことだ。ふしだらな父親から受けた淫行の跡が、皮膚の深くにまで入り込んでしまったのだろうか。そういう意味では身体的にも、精神的にも、彼女が抱えている傷は生涯消えることがないのだ。
それから通信販売の話と、花粉アレルギーの部分も加味しなくてはならない。
いまの段階では一つ一つのキーワードがばらばらのように思えるが、これらをひっくるめて束ねてしまうほどの真相が、必ずどこかに潜んでいるに違いない。
北条は得体の知れない武者震いのようなものをおぼえた。
「北条さん」
藤川透は刑事の名前を呼んだ。
北条は片方の眉を上げ、聞き耳を立てた。
「ほら、神楽町の通り魔事件の現場付近で犯人らしき人物を目撃したって言う女性、一人だけいましたよね?」
「彼女がどうかしたのか?」
「名前は月島麗果、たしか銀行員でしたっけ」
まさか、と北条の勘が働いた。
「君らの組織が関与しているのか?」
「青峰由香里のときと同様、匿名で密告がありました。言われた通りのバーに大上さんと二人で潜入してみたんですが、ほんの僅かな隙に彼女を取り逃がしてしまったというわけです。まあ、その後すぐに身柄を確保して、今頃はクライアントの手に渡っているはずですけどね」
なるほどそういうことか──と北条は脳で納得した。花井孝生の殺害現場を見られたかも知れないと思い込んだ犯人が、月島麗果の口を封じるために監禁レイプを依頼したのだとしたら、彼女が見たと言う『黒い服に黒い傘』の人物こそが真犯人ということになる。
まず、月島麗果を買った客の居所を突き止めねばならない──北条がそう腹を据えたときだった。
「俺を泳がせてみてください」
と藤川は言った。
「下っ端の俺には客の顔も名前も知らされてませんけど、それとなく大上さんから聞き出せるかも知れない」
花井香純の役に立ちたいという思いが、藤川のその表情から汲み取れた。
ここはひとつ、彼のコネクションを信用してみようということで、刑事らは合意の視線を交わした。
「最後に確認したいことがある」
その台詞を言った北条の目は、藤川の眼球を捉えている。
「花井香純の両親の所在について、彼女自身からは何も聞かされていないのか?」
「聞きましたよ。父親と母親を早くに亡くしている上に旦那まで失ってしまって、今はどこにも頼るところがないと、確かそう漏らしていましたね」
「やはりそうか。わかった。君がいま言ったことが、今後の捜査の展開を大きく左右するかも知れない」
北条は発言の後に、デスクの凹んだ部分を、こつこつと人差し指で小突いた。
◇
※元投稿はこちら >>