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大上次郎、藤川透、この二人が所持している警察手帳は偽造されたものであり、彼らもまた偽物の刑事だということは突き止められた。
そしてそれらの肩書きを悪用し、青峰由香里レイプ事件に何らかのかたちで関わっていることもわかった。
彼らが直接犯行に及んだのか、それともまだほかに仲間がいるのか、現時点では有効な手掛かりと言えるものが不足していた。
そんなふうにこれまでに収集してきた情報を解析しながら、北条は缶コーヒーのプルタブを開け、口をつけた。
気象庁からの発表によれば、今朝は二月上旬並みの冷え込みが予想されており、なおさら温かい飲み物の有り難みが体中に染み渡った。
彼の脳裏には今、ある人物の顔が描かれていた。神楽町通り魔事件の被害者となった花井孝生の妻、香純だ。
刑事を語る藤川透の素性を明らかにできたのも、彼女の協力によるものが少なからずあったのだ。
ある犯罪組織が、あらゆる事件の水面下で暗躍しているという噂は、以前から警察の耳にも入っていた。
そこで今回、大上次郎と藤川透という刑事を名乗る両者に着目し、さらに北条独自のルートにより、藤川透が花井香純に接触するであろう情報まで得た。
北条はすでに、通り魔事件が起きたときに彼女との接見を果たしている。連絡先はその際に教えてあった。
北条は香純にこう言った。
「藤川透という男があなたに会いに来たら、彼が所持している警察手帳を見せてもらってください。そして僕がこれから言う箇所を、その目でよく観察してみてください。いいですね?」
その後、警察手帳の真贋を見極める方法を、北条は香純に伝えたのだった。
そうして後日、彼女から連絡があった。その内容は北条が思い描いていた通りの答えだった。
「それにしても、未だに信じられませんよ」
運転席の五十嵐が、突然そんなことを口にした。
「なんだ、また幽霊の話か?」
と北条が茶化す。
二人を乗せた車は、道幅の狭い県道を走っていた。
「違いますよ。あの花井香純が、まさか自分の夫に多額の保険をかけていたなんて、思ってもみませんでした」
「だからといって、彼女が犯人だと決まったわけじゃない」
「これからそれを確かめに行くわけですよね?」
「そういうことだ」
フロントガラスを撫でていく木の葉の影が、二人の視界をかすめていく。
そうして間もなく森林を抜け出し、少し拓けた場所に車を停めると、五十嵐、北条の順に車から降りた。
すぐ目の前に白い建物が立ちはだかっている。『聖フローラル学園』という文字が、白壁の門のところに彫刻されていた。
その児童養護施設を目の当たりにしてみても、恵まれた環境で育ってきた五十嵐にとっては、現実として酷く受け入れ難い光景でしかなかった。
複雑な思いを抱いたまま、二人は建物の入り口へと足を運ぶ。そのドアが内側へ開き、女性職員が彼らを出迎えた。
あらかじめ連絡してあった通り、面会室で話をすることになった。
四十歳ぐらいの彼女の容姿は飾り気がなく、どこにでもいる主婦のように見える。
子どもが二、三人いたとしてもおかしくないだろう、と五十嵐は余計な詮索をした。
「この写真の女性が、いまの香純さんです。現在、二十八歳になられてます」
北条はそう言って、一枚の写真を彼女に見てもらった。
女性職員は返答に困り果てた様子で、
「そうでしたか」
とだけ言った。
それもそのはずだろうと、北条は写真と彼女の顔とを見比べた。彼女は花井香純とは面識がないのだ。
「まえの園長から聞いた話というのを、我々に教えていただけますか?」
五十嵐の腰の低い口調に促され、婦人はしんみりと頷いた。
「園長は生前、ある女の子の話をよく私に聞かせてくれました。十一歳でこの施設に預けられたその子の両親というのが、母親はともかく、父親のほうがかなり問題のある性格だったそうです。自分はろくに働きもせず、それでいて母親が苦労して稼いできたお金を湯水のように遣い、よその女を平気で家に連れ込んだりもしていたらしいです。それから……」
その先が続かず、彼女は膝の上で握り拳をつくった。そして絞り出すような声で、
「その子は実の父親に、……犯されたのです」
と感情的に語った。おなじ年頃の娘がいるのか、力の入り具合が尋常ではない。
「すみません。みっともないところを」
と詫びる彼女に、北条は無償の笑顔を向けた。
「構いませんよ。我々が勝手にこちらに押しかけたのが悪いんですから。あなたはただ、ありのままを話してくれるだけでいいのです。その内容しだいでは、間接的にではありますが、不幸な一人の女性を救うことができるかもしれない。今回のことであなたに危害が及ぶこともありませんので、どうかご安心ください」
意外なほど紳士的な態度をとる刑事のおかげで、施設の女はようやく平常心を取り戻し、ぽつぽつと続きを話した。
「そんなふうに、あってはならないことが実際にあったわけなんですけど、結局その出来事が引き金となって、彼女の両親は離婚したのです。もちろん、彼女は母親に引き取られました。ですが、その後の母と子二人きりの不自由な生活で、母親の寿命はあっという間に削られていくことになるのです。とうとう自分一人では娘を養っていけないと思ったとき、母親は最愛の家族を手離す決心をして、この施設を訪れました。ほんとうに、どれだけ辛い決断だったことか、私には想像もつきません」
この頃になると、彼女の姿勢もすっかり俯いてしまい、五十嵐は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。しかし、かけてやれるだけの言葉が何も出てこない。
「その時に引き取った女の子が香純さん、ということで間違いありませんか?」
北条が問いかけると、
「まえの園長からは、そう伺っています」
と彼女は相槌を打った。
「それでは香純さんのご両親についてですが、いまはもう亡くなられているということで、こちらも間違いありませんね?」
この質問に限っては、
「誰がそんなことを?」
と女性は怪訝な表情をする。
「それは、香純さん本人の口から聞きました」
五十嵐が告げた。
「まさか。だってその子の母親からは、こちらの施設宛てに寄付金が毎年のように届いているんですから。大した金額ではありませんけど、その子がここを巣立っていった翌年から、ずっとです」
一体これはどういうことだと、五十嵐は北条と顔を見合わせた。先輩刑事の表情は、それほど意外そうな様子ではなかった。
「香純さんの母親から届いたというその封筒を、ぜひ拝見したいのですが」
言いながら北条が手を差し出すと、すでに準備してあったのか、女性職員はバッグから茶封筒を取り出して彼に手渡した。
確認してみると、裏面の住所のあとに『三枝伊智子』とある。花井香純の旧姓が三枝(さえぐさ)だということをそこで知った。
「父親のほうは?」
と五十嵐が尋ねると、彼女は首を横に振った。
かと思うと、
「そういえば、一つ思い出したことがあります」
と大げさに目をぱちくりさせた。
「三枝香純さんは、白雪姫にとても強い興味を示していたそうです。と言っても、この施設で行われた演劇の白雪姫のことですけど」
「白雪姫?」
北条は瞬時にアンテナを張った。
「ええ。普通ならもう、白雪姫なんかは卒業している年頃なんでしょうけど、彼女の中の白雪姫は、かけがえのない永遠の存在だったようです」
そこまで聞き終えると、北条は顎をさすりながら考え事に耽った。頭にぴんとくる答えが浮かびそうで、その都度うんうん唸っている。
そんなとき、彼の携帯電話に新しい知らせが入った。それは意外にも、藤川透が出頭したという内容のものだった。
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