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銀行員としてのキャリアがまだまだ不足しているのだと、つい先日、月島麗果(つきしまれいか)は上司から叱責されたばかりだった。
毎日おなじ窓口に立ち、相手の顔色を窺いながら愛想笑いをつくる、それがどうも自分には向いていないんじゃないかと思うようになっていた。
大学を経て、大手銀行に就職が決まったまでは良かったのだが、その後はずっと下り坂だった。
職場でのセクシャルハラスメントは特に酷かった。
胸やお尻を撫でられることが何度か続き、そういうことはやめてくださいと反抗すると、今度は個室に呼び出されるのだ。
予想通り、仕事とはまったく関係のない質問責めに遭った。
恋人はいるのか、処女喪失は何歳で相手は誰か、自慰行為の頻度や特別な嗜好品があるのかどうか、およそ女性が答えられないようなことばかり訊かれたりした。
上司からの命令だと凄まれたら、すべて正直に告白するしかなかった。
そしてある日、麗果は仕事でミスをした。金額を一桁間違って入力してしまったのだ。それには理由があった。
麗果がミスをしたその日、彼女の膣内にはバイブレーターが仕込んであった。当然、上司がそうするように命じたのだ。
そして麗果が澄まし顔で接客している最中(さなか)、玩具は遠隔操作され、彼女はそこで人知れず快感を味わっていた。
そこでミスが起きたのだった。
麗果はふたたび上司に呼び出され、愛液で汚れたショーツを手に、言葉の圧力を受けた。
システムの誤作動によるものならまだしも、これがヒューマンエラーなら君の責任は重大だ、と。
そして彼女の救済方法として、男性上司はオーラルセックスを要求してきた。
麗果は戸惑いながらも、その条件を呑む意外に選択肢はないのだと思い込んでいた。
稚拙なフェラチオで精液を飲まされたあと、今度は麗果が舐められる側になった。
濃密で汚らしいクンニリングスの果てに、麗果は何度か絶頂した。
そうやって今日までの出来事を振り返ってみて、退職願も出せないでいる自分自身がとても情けなかった。
いまの仕事を辞めて永久就職をしようにも、相手の男性にまったくその気がないのだ。
こんなふうだから、仕事にも私生活にも嫌気が差していた。
仕事帰りの夜道を一人で歩き、なんとなく見覚えのある歓楽街にたどり着くと、麗果は一軒の店に目星をつけてそのドアをくぐった。
淫靡な匂いに包まれた店内は何とも言えず独特で、一寸先も見通せない表社会とは裏腹に、どこか金銭感覚を麻痺させる毒素が漂っているようにも見えた。
「いらっしゃい。このあいだはどうも」
とニューハーフのママがこちらに愛想を送ってくる。
麗果は会釈を返し、
「おいしいお酒、今日もおねがい」
と気取った文句を添えた。
「うちのお店に、まずいお酒なんてあったかしら」
「確かに、ここの人は男か女かはっきりしていないけれど、お酒の味だけははっきりしてる」
そうやって洒落を利かせて笑顔になったあと、麗果は空席に腰掛けた。
すると彼女の両隣もすぐに埋まる。どちらもニューハーフだ。
「麗ちゃん、また来てくれたのね。嬉しいわ」
ブロンドのかつらを着けたナオミがグラスにシャンパンを注ぐ。
「あたしも、麗ちゃんと再会できて、興奮で髭が伸びちゃうかも」
そんな自作のジョークに爆笑するのはローズだ。
そうやって笑いが絶えないまま乾杯が終わり、それぞれに言いたいことを喋っては、食べて、飲んで、また談笑した。
こういうお金の使い方もあるのだと提案してきたのは、銀行の窓口に訪れた一人の女性客だった。
近いうちにかなりの額のお金を相続するかもしれないということで、その運用方法についての相談を受けていたのだ。
そして何かの拍子で世間話になり、そこでホストクラブの話題が持ち上がった。
いきなり免疫のない高級店に行くのは危険なので、まずはニューハーフあたりを相手に場数を踏み、雰囲気に馴染んでおいてからのほうがいいかもしれないと、その女性客は親切に助言してくれたのだった。
まわりから性的嫌がらせを受けていた時期と重なり、麗果はそこに現実逃避への抜け道を見出していた。
遊ぶ金はすぐに準備できた。彼女は銀行の金を着服したのだ。
もうおしまいだという罪悪感が消えることはなかったが、とにかく現実から逃げ出したかった。
「そんなに思い詰めた顔しちゃって。彼氏と喧嘩でもしたの?」
我に返った自分のすぐそばに、ナオミの厚化粧の顔があったので、麗果は無理矢理笑ってみせた。私情を悟られるわけにはいかないからだ。
「ううん。なんでもない」
「そういう男関係の愚痴なら、いくらでも聞いてあげるからさ。なんてったってあたしたち、中身は乙女なんだもの」
ローズもそうやって麗果を気遣う。
湿っぽく飲むためにここに来たわけじゃないことを思い出し、麗果は明るく振る舞った。
「ありがとう。それじゃあ今夜は、とことん飲んじゃう」
みんなでグラスを重ねると、嫌なことがぜんぶ吹き飛んでいくような気がした。
「いらっしゃ……」
途中まで言いかけて、店のママであるアゲハは表情を曇らせた。
新たな来客があったにもかかわらず、歓迎ムードがまるでない。
新顔は男二人。どうやら酒を飲みに来たわけではなさそうだと、店内の誰もがそう推測した。
彼らはカウンターまで一直線に歩いて行くと、アゲハに向かって、
「こういう者だ」
と手帳を振りかざした。
「この店に、月島麗果という女性が来ているはずなんだけどね」
藤川透はカウンターに身を乗り出して尋ねた。
「あたしは知らないわよ。だいたい客の名前なんて、そんなのいちいち覚えてらんないわ」
アゲハは煙管(きせる)片手に軽くあしらった。そしてさり気なく、ナオミとローズに合図を送る。
「ここにいるっていう匿名のタレコミがあってね。我々としても動かないわけにはいかくなった、とまあそういうことだ」
大上次郎は、わざと抑揚のない物言いをした。
「その女の人が何をしたのか知らないけど、冤罪を生むのだけはもう勘弁してよね。あなたたち警察の人間はね、一般市民から反面教師にされているのよ。これって、どういう意味だかわかるかしら?」
たかがニューハーフのママからそんな説教を聞かされ、大上と藤川はリアクションに困った。酒の一杯でも飲みたい気分だった。
その時、店内の照明がふっと消え、次の瞬間には悲鳴が飛び交っていた。
グラスをひっくり返す音、走りまわる足音、そしてドアが閉まる音がした。
それから数秒のあと、何の前触れもなく店内はまた明るくなり、騒ぎもおさまった。
カウンターの奥でただ一人、アゲハだけがポーカーフェイスで佇んでいる。
背後の壁には照明のスイッチがあり、そこに目をつけた大上は、
「やりやがった」
と歯ぎしりをした。いまの停電の騒ぎに紛れて、月島麗果は店の外へと逃がされていたのだ。
大上はそのまま藤川を連れて、振り返ることなく店を出た。
「ざまあみやがれ」
というブーイングが、藤川の背中に命中した。
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