『ヴァギナビーンズ症候群』
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今日の空模様は雨のち晴れだと、予報ではそんなことを言っていた。
土曜日の朝、橘千佳は落ち着かない様子で衣装ケースやクローゼットの中を引っ掻きまわし、これから着て行く服を決めかねている。
雨ならこっち、晴れならこっちと思っても、会う約束をしている相手が相手なだけに、個人的に気合いが入ってしまうのも可愛げがあるのかなあとも思う。
今朝、姉の琴美は千佳よりも早くに起床し、「夕方には帰るから」とだけ言い残して出掛けて行ったのだった。
毎月市役所が発行しているフリーペーパーに載せる記事を企画したり、それに伴う取材なども琴美が引き受けている。
どちらかといえば、こども家庭課の窓口に立つよりも、そちらのほうがメインになっていると言っていい。
なかなか首を縦に振ってくれない先方から、ようやく取材許可が下りたのだ。
「急な仕事が入ったから、ごめん、私の代わりに行ってきて。この埋め合わせはかならずするから」
琴美がそう言ってきたのが二日前。それでも千佳は嫌な顔ひとつ見せずに、二つ返事でオーケーした。
「もうこんな時間。どうしよう、来ちゃうよ、やばいやばい」
軽いパニックと独り言、それから足の裏がくすぐったいような夢見心地も、千佳には久しぶりの感覚だった。
しばらくしてアパートの外で車のエンジン音が途切れ、それから間もなくチャイムが鳴ると、玄関ドアの外に感じる気配に千佳の心臓はいよいよ止まりそうになる。
ドアを開け、その人物を部屋の中に招き入れた。
「おはよう、千佳ちゃん」
「おはようございます。あの、あと少しで準備できるんで、えっと、何か飲みますか?コーヒーがいいですよね。アイス、アイス、ミルクとシロップどこだったかな──」
緊張を隠すための笑顔をつくりながら、千佳は早口でしゃべりつづける。
三上明徳は至ってクールだ。
「どうぞおかまいなく。なんだか朝早くに目が覚めてさ、そしたら今度は眠れなくなっちゃって。修学旅行の前日じゃあるまいし、笑っちゃうだろう?」
「あ、それわかります。だって私も夕べはなかなか寝付けなくて、羊一万匹も数えちゃいましたから」
千佳の悪ふざけから出た冗談で、二人の笑顔が打ち解けていく。
彼女が羊なら僕は狼で、だとしてもいざという時までは牙を隠しておかなければならないのだと、明徳は思った。
久しぶりに会う千佳はずいぶんメイクも上達していて、エチケットが行き届いたその姿は清潔感に溢れ、性的対象として見ていいものかどうかもわからなくなる。
それほど明徳の心は波立っていた。
「千佳ちゃんだって忙しいのに、僕らのことに付き合わせてしまってごめん」
「私のほうこそ、お姉ちゃんの代わりになれるかどうか」
「そんなことより、僕と千佳ちゃんはどういうふうに見えるだろうね。新郎新婦でもなければ、恋人同士でもないし」
そんなに否定ばかりしなくてもいいのに、と千佳はちょっぴり胸が痛くなった。
そして明徳が咳払いをして「だけど迷惑かけてるのは事実だし。あらためて……、今日一日、千佳ちゃんを僕に貸してください」と言うと、サプライズゲストを見るような表情で「はい」と千佳は頷いた。
ほんとうは今日、明徳と琴美のふたりで結婚式場に行く予定だった。披露宴で出される料理の試食会の為だ。
それなのに琴美は取材の仕事を優先し、その代わりとしてピンチヒッターにふさわしい千佳を送り出したのだ。
こんな巡り合わせがそう何度も訪れるわけがない。
根拠のない自信が千佳の背中を押したり、そして時には引くことも必要なのだと囁く。
「そういえば……、あの時の僕はほんとうにどうかしていたよ。もう忘れてくれていいからさ」
明徳が仄めかしている事が何なのか、千佳にはすぐにわかった。わかった上でこの難解な感情をどうぶつければいいのか、それを解く鍵を彼に求めた。
「三上さん……」
「何だい?」
「あのキスの意味を……、私に教えてもらえませんか?」
*
どうしてこう私の人生はツイてない事ばかりなのだろう。ツイてる事といったら三上明徳と出会って婚約までたどり着けた事ぐらいだと、橘琴美は胸のあたりを気にしながら口を尖らせている。
今日は取材が二件も入っていた。肩掛けのバッグには取材用のツールもいくつか入っていたが、そんなに重いものでもない。
それを抱えた拍子に体のどこかで何かが切れる感覚があり、それがブラジャーのストラップだということに気づく。
新しい下着を買っている時間もなく困り果てたが、結局あきらめて人目のないところでブラジャーだけを抜き取った。
まさかノーブラで取材することになるなんて、なんだか落ち着かないな……。
けどまあ、おっぱいが仕事するわけでもないし、これは企業秘密にしておけば誰にも迷惑かからないだろう──などと大胆なことを考えながらも、キャミソールの生地は琴美の胸の先端をこすっている。
顔には出さないものの、生理的な反応は明らかに琴美の貞操を脅かそうとしていた。
オープン間もない洋菓子店の駐車場は、開店早々すでに満車の状態だった。
琴美は仕方なく車を路上駐車させると、捲れた分のスカートを伸ばしてアスファルトに降りる。
シャンパンピンクに輝くコンパクトカーのボディーに、いまにも雨が降り出しそうな空が映っている。
明徳と千佳は無事に結婚式場に着いただろうか。私の勝手で振り回してしまって、私の悪口を言ったりしていないだろうか。
琴美の注意は自分の胸から逸れて、残してきたあの二人に向けられていた。
その洋菓子店には『シュペリエル』というフランス語の名前がつけられていて、店の外にまで溢れるほどの客の行列がその盛況ぶりを象徴している。
看板メニューは、ヴァニラ・ビーンズをたっぷり効かせたカスタードプリンらしい。
様々な客層に当たり障りのない質問をしながらメモを取る琴美。
誰に嫌な顔をされることもなく、男性客の中には逆に琴美に質問を返してくる者もいる。
彼女の容姿と人柄がそうさせていることは、そこにいた誰もが認めていたようだ。
「ネットで調べて県外から来ました」と言う女子大生グループもいれば、「自分へのご褒美に」と微笑む主婦、「彼女に頼まれて代わりに並んでます」なんて苦笑いの若い男性まで、個々の事情とスイーツとの関係について妄想を膨らませるのもまた面白い。
ある程度の情報が揃ったところで、今度は店のスタッフから話を聞くことにした。
こちらは事前に交渉を済ませてあった為、半ば私情を挟みながらも甘党談議は大いに盛り上がった。むしろ盛り上がりすぎたかもしれない。
二件目の取材の時間が迫っていたことに気付いたときには、遅刻を覚悟しなければならなかったのだ。
カスタードプリンを手土産に店の外に出ると、低い空から雨が降っていた。
できるだけ濡れまいと琴美は車まで走ってみたが、服もスカートも予想通りの有り様になった。
ふうっと溜め息をついてバッグからハンカチを取り出し、そこらじゅうの濡れた部分を拭く。
若い女性の濡れた姿に欲情するのか、目の前を行き過ぎる男性の誰もが車内の琴美に向かって色目を送っていく。
男の人はみんなそうだ。どうせ家に帰ったら勝手に妄想をふくらませて、私のヴァギナやクリトリスを常識の外にまで成熟させたり、簡単にイク女に仕立て上げようとするに決まってるのだから。
琴美は不愉快な気分をお腹に溜めたまま、雨足の強くなった中を車で走り出した。
*
『ヴァギナビーンズ症候群』
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