『ヴァギナビーンズ症候群』
3
翌朝、橘琴美は妹の部屋を訪れていた。
夕べの記憶がすっかり抜け落ちているということは、先に酔いつぶれてしまった私を彼が部屋まで運んでくれて、それからは千佳と二人きりで飲ませてしまい、つまらない思いをさせていたのだなあと、琴美は申し訳ない気持ちでいた。
だからこうして朝早くから謝りに来てみたのだが、千佳は寝相を乱しながらも熟睡中の様子。
おや、これはなんだろう、と千佳の枕元に見つけたものは、開いたままになっている日記帳だった。
どうやら千佳は最後まで書き終えるまえに眠ってしまったようだ。その綺麗な筆跡を目で追う琴美。
『私は、好きになってはいけない人を好きになってしまった。彼はわるくない、わるいのはきっと私。こんなことなら会わないほうが良かったのに、出会ってしまった事実はもう消せない。会いたい、会いたい、会いたい。どこに行けば二人きりで会えるの?誰からも干渉されたくない。誰も傷つけたくない。もちろん私自身も傷つきたくない。どうかこんな私に夢を見させて欲しい。そうじゃないと私は大切な人を──』
日記はそこで終わっていた。
文字のところどころが滲んでいるのは、きっと涙が落ちた跡なのだと琴美は思う。
それに丸めたティッシュペーパーが二つ三つ転がっている。たぶん涙を拭うのに使ったのだ。
「千佳……」
自分の妹が恋愛のことで悩んでいるというのに、ふさわしいアドバイスがなかなか浮かんでこないのは、おそらく自分が永久就職という場所に甘えている証拠なのだろう。
それでもなんとか彼女にも幸せを手に入れて欲しいと願わずにはいられない琴美だった。
*
千佳が目を覚ましたとき、姉の姿はどこにもなかった。
結婚前の忙しい時期にいる身でありながら、市役所勤めに愚痴のひとつもこぼさない、そんな姉が千佳の誇りだった。
千佳の会社はそこそこ名の知れた程度の文房具メーカーで、まだまだ高校生活の延長のような気分が抜けないまま、社内の同僚に連れ回されては、あらゆる分野の飲み会に顔を出す日々。
だからといって派手な生活をするでもなく、身の丈に合った金銭感覚と、欲の浅い恋愛観だけは常に保っていた。
そこに現れた三上明徳、彼の存在が千佳にとっての分岐点になったのは、言うまでもなく千佳の一目惚れに他ならない。
そんな彼との夕べの出来事が、まだ現実のものだとは思えない。
あのキスはいったい何だったのか。
昨夜は明徳が帰った後もなかなか寝付けず、一線を越えられなかった火照る体をベッドに投げ、途方もなくオナニーを求めたのだった。
けれども自分の体のどこをどう触れば快感が脳につたわるのか、そのあたりはまだまだ初心者だし、俗に言う『イク』とはいったいどんな感覚なのか、はっきりした自覚もない。
もちろんセックスは経験済みだ。痛いばかりの挿入に泣いたこともある。
相手が下手なのか、自分の体が未開発なのか、どちらにしてもセックスが気持ちいいと思ったことは一度もない。
しかし夕べのあのキスは違った。あのまま彼に押し倒され、ズボンの中のものを挿入されていたら、おそらく自分は女としての悦びに震えてしまっただろう。
なぜならあのキスの最中、女性器の奥から漏れてくる下り物には不快感がなかったのだから。
事実、あとでショーツの濡れた部分の匂いを嗅いでみたけれど、それは異臭とは程遠いものだった。
セックスがしたくなると女の体は恍惚に染まり、膣が濡れる。
千佳の場合はそれだけではなく、生理不順になるほどの恋愛体質になってしまっていた。
「おっぱいが張っちゃうんだ」「先月は生理が来なかったのに、今月は二回も来ちゃって」みたいなことを友人にも度々こぼしたり。
極めつけは「何を食べても味がしないんだけど」と打ち明けたことだ。
恋の病、みんなが口をそろえてそう言う。
「最近元気ないね。悩んでるなら私が相談に乗ろうか?」
千佳のことをいちばん近くで見ていた姉の琴美は、妹の表情が日に日に沈んでいくのを心に掛けていた。
「大丈夫、私ひとりでなんとかなるから」
「隠し事はなしだよ」
「うん、ありがとう。ごめんね、心配かけさせちゃって」
お姉ちゃんの婚約者のことが好きになった、だから私はこんなにも悩んでいる、なんてこと言えるわけがなかった。
あのキスをした日以来、千佳は明徳とは会っていない。彼からモーションをかけてくることもない。
あのときは二人とも酔っていたし、適当に盛り上がりたかっただけかもしれない。
彼は姉のことを愛しているのだから、私なんかに気持ちを傾けている余裕なんてないはずだ。
それに、私が彼を誘うような眼をしていたから、きっと彼も勘違いしたのだろう。
千佳は無理矢理にでもそう思うことにした。
次の月経は予定通りに来た。少しずつだが味覚も戻って、夢枕に明徳を思うこともしだいに減っていく。
琴美と明徳の結婚披露宴で述べる予定のスピーチにも、前向きな言葉が目立つようにもなってきている。
この分ならあと数日もすれば熱もすっかり冷めて、新しい恋に挑めるにちがいない。
千佳がそう切り替えようとしていた、まさにそのタイミングだった。
*
『ヴァギナビーンズ症候群』
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