『ヴァギナビーンズ症候群』
LAST
「僕がどんな職業の人間なのか、あの二人は知らないでしょうね」
隙のない姿勢で立ったまま、若い男がしゃべった。
「やはりきみに依頼して正解だったよ、三上明徳くん」
高齢の画家らしき人物は、両手を揉みながら隣の男を絶賛した。
「河原崎郡司先生ほどの人が、僕みたいな得体の知れない男を頼ってくるとは思いませんでした」
「素性を明かしていないからこそ、きみが適任だったわけだよ」
「いかにも」
そう言って三上明徳は目先の壁を眺めている。
河原崎郡司も彼とおなじ方向へ視線を送る。そこには大きな絵画が飾られていた。
「この歳になるまでわたしは、三人の妻を娶(めと)ってはすぐに別れ、ろくに跡取りもつくろうとはしなかった。みんなわたしの財産が目当てで近づいてきたからだ。そんなもの、何の価値もないというのに、いちど目が眩むともう本質を見抜くことなど不可能になる。しかし、彼女は真っ直ぐわたしの意図を見抜いた。女の操(みさお)を差し出して、わたしにアートの新境地を用意してくれたのだ。近頃の人間にはなかなか出来んことだよ」
「まったく同感ですね。ネットに氾濫している猥褻(わいせつ)なものばかりが持て囃されて、真偽も問われない無法地帯で汚されずにいる彼女は、現代の大和撫子と言えるでしょうね」
二人は絵画に見惚れている。そこに描かれている人物は、乳房や女性器を惜しみなく露出した橘琴美、千佳姉妹の姿だった。
河原崎郡司が海外で個展を開くというので、琴美も彼と共にやって来たはずなのだが、ここに彼女の姿はない。
めったに来れない海外ということで、わざわざ現地のガイドを雇い、いまごろ世界遺産などの名所旧跡を探訪しているにちがいなかった。
三上明徳が河原崎郡司と顔見知りなことも彼女は知らない。
「どこかで、くしゃみなんてしてなきゃいいんだけどなあ」
「噂話ぐらい構わんだろう。ちゃんと上等な服を持たせておいたからな」
二人は声を出して笑った。
河原崎郡司の依頼内容とは、眠った才能を呼び覚ましてくれるほど美しい被写体を望む、ということだった。それを叶えたのが三上明徳である。
「これで私欲は満たされた。報酬はいくら必要かね?きみが提示する額を支払おう」
孤高の画家は上限を示さない。
「いいえ、結構です。報酬ならもういただきました」
三上明徳は少し照れた顔を伏せた。
「というと?」
「僕は彼女と……、橘千佳と本気で生きていくつもりです」
地球の裏側で、今度は千佳がくしゃみをする番だ。
「こう見えてもわたしは甘い物が好きでね。だからそういう色恋話も、それほど嫌いではない」
そう言って河原崎郡司は自身の個展の会場を見てまわり、来客との交流に空気を沸かせるのだった。
たしかに、ヴァニラビーンズを効かせたあのカスタードプリンは、彼女の肌の上でとろりと溶けて、いつまでも僕の心を甘く魅了していた。
あの日のセックスを思い返しながら、三上明徳は会場内を見渡してみる。
客入りは予想通りに良い。ただ、扱っている作品があまりにも過激なため、会員制にしたり年齢制限を設けたりで、建物自体がマニアックな空間に特化してしまっている。
それでも人は集まり、女性客が大多数を占めているのも時代の変化なのだろう。男も女もバタフライマスクで顔を覆い、河原崎郡司の鬼才ぶりを目の当たりにして驚嘆していた。
じつに様々な言語が飛び交う中に、日本語を話す女性客たちもいた。彼女らは顔が割れないのをいいことに、卑猥なフレーズをここぞとばかりに遣って、日頃の欲求不満を解消しているのだろう。
マスクを外しても、その素顔はありきたりなものではなく、異性を惹きつけるだけの要素ぐらいは持ち合わせているはずなのだ。
紅い唇だけが官能的に動き、バタフライの奥に潜んだ妖しい瞳で、肖像画の彼女を品定めしていく。
「まるで生きているみたい」
「男を捕食する名器だわ」
「ラビアの濃淡と、白い地肌のハイライトが綺麗ね」
「観ていると、自分の体を触りたくなってくる」
「ここでオナニーしちゃえば?」
「私はだいじょうぶ。クリトリスにピアスしてるから」
「ねえ、私の服にライン出てない?」
「飽きずにまた縛ってきたの?」
「今日の紐はひびきにくいはずなんだけど、彼氏に縛られるのと自分でするのとじゃ勝手がちがうから」
「安いおもちゃだとすぐに壊れちゃうから、私はコスメ系バイブを仕込んできちゃった」
「みんな、いい心掛けね。ボーイズラブにハマるのもいいけど、どうせ一生女でいるんだから、ヴァギナに嫌われない生き方をしないとね」
彼女らの猥談に終わりはない。この話の輪の中に琴美や千佳の姿があっても、おそらく違和感はないだろう。
三上明徳は思った。自分は女性器が好きだ。セックスを知れば知るほど、女性器の神秘を思い知らされる。そこは子宮という名の迷宮につづく、永遠のヴァージンロードなのだから。
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『ヴァギナビーンズ症候群』
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