『ヴァギナビーンズ症候群』
16
鳴り止まない拍手の中、スタッフのひとりが千佳にヴァイオリンを手渡すと、会場はまた元どおりの静けさを取り戻す。
弦の上に弓を構える。
なにもない数秒間が過ぎたあと、そよ風が吹き抜けるようなヴァイオリンの音色が流れてきた。
その音源は、限りなく千佳の体内に近い部分にあるのだと、誰もが錯覚したにちがいない。それはおよそ恋をした乙女にしか表現できないメロディーだったからだ。
千佳は自分の世界に入り込み、より一層の叙情を織り交ぜて最後まで演奏しきった。
うまくいった、と自分自身を絶賛しながら一礼をして、ふたたび顔を上げたときだった。
「千佳」と名前を呼ぶ男の声がする。
聞き覚えのある声だったから、千佳はすぐにそちらを向く。三上明徳がそこにいた。
けれども、その隣にいるはずの花嫁の姿がどこにもない。
照明はまだ暗いままになっていて、千佳と明徳の立ち位置だけがスポットライトを浴びている。彼が彼女に近づいていくと、長い光もそれを追って移動し、やがて交わった。
千佳にはわけがわからない。この状況の説明を要求するように、彼女は見える範囲で会場内を見渡してみた。
するとどういうわけか、慣れ親しんだどの顔にも、こうなることを見越していたとでもいうべき笑みが用意されているのだった。
「三上さん、お姉ちゃんは?お色直しにはまだ早すぎるみたいだし」
「じつは、ずっときみに黙っていたことがあるんだ。それを今日ここで告白しようと思ってね」
音響のスイッチは切られ、二人はアカペラで対話するかたちとなる。
「どういうことですか?」
「いつだかきみは僕にこう訊いたよね。サプライズは準備してあるのか、ってね」
「はい。あの……、それは……」
千佳は思わず息を飲む。
「まだわからない?」
「え……と、あの……でも……」
彼の言わんとする企みが、千佳はなんとなく読めてきていた。しかしそれがあまりにも現実離れした妄想だったから、自分の頬をつねって確かめるわけにもいかず、ここはひとつ騙されてみようかと思った。
そこへ姉の琴美が登場した。しかもウエディングドレス姿ではなく、シャーベットカラーの黄色いドレスを着ていたのだ。
「お姉ちゃん、どうして……」
「それはあとで話してあげる。だからこれは、ほんとうの花嫁に返しておかなくちゃね」
そう言って琴美は自分の指からエンゲージリングを外すと、いちど明徳に手渡し、彼から千佳の指にはめられた。
千佳は何度も手を返し、指輪のサイズが合っていることを疑問視している。
「千佳」
紳士的な声で新郎が言う。
「はい」
落ち着いた声で新婦がこたえる。
僕と……結婚してくれ。
よろしく……お願いします。
おそらくそんなやりとりが交わされているのだろう。会場のいちばん後ろから立ち見していた河原崎郡司は、聞こえない会話の内容を雰囲気から読み取り、「なるほど、それをわたしに見せたかったのだな」と満悦な表情で呟いた。
遠目から彼が新郎新婦を眺めていると、主役の二人は熱烈なキスを交わし、次に姉と妹とがハグをするのが見えた。
スタッフに扉を開けてもらい、郡司は会場を出た。そこで目の端に見えたのは、イーゼルに立てかけられたウェルカムボードだった。
彼がここに来たときには、確かに明徳と琴美の名前が記されていたはずなのだが、いまそこに書かれているのは明徳と千佳の名前である。
郡司はまた無性に口が寂しくなり、喫煙ルームの案内に従って歩き出す。
*
興奮冷めやらぬままに、仲の良い姉妹は二人きりで新婦の控え室にいた。そこで姉から明かされた事実を聞き、千佳は何ともやりきれない気持ちで肩を落とした。
それは、千佳がよく好んで視ていたテレビドラマのワンシーンとダブる部分があったからかもしれない。
明徳と琴美の関係は、もうずいぶん前から冷めていたらしい。それから明徳と千佳の関係についても、琴美はある時点からなんとなく感づいていたと言う。
何より決定的な事実は、琴美が明徳以外の男性と性交して、さらには妊娠してしまったということだった。産むか産まないかは明言しなかったが、妊娠についてはまだ相手の男性にも伝えていないようだ。
加えて、近いうちに日本を発つ彼について行くとも言った。そうなるといよいよ、あのドラマの中で男と女が繰り広げていた会話が、明徳と琴美のあいだで交わされていたことになる。
「お姉ちゃんはそれでいいんだよね?」
「お父さんにはすごく反対されちゃった。だけど、お母さんは認めてくれた。自分の人生なんだから、後悔のない選択をしなさいってね」
「三上さんは?」
「彼は、明徳さんは私を応援するって言ってた。だから私も、千佳を泣かせるようなことだけは絶対しないでねって、釘を刺しておいたから」
「ありがとう。私はかならずしあわせになるから、お姉ちゃんにもしあわせになってもらわなきゃ困るんだからね」
「うん、わかってる。ほら、はやく着替えて。みんな千佳を待ってるんだから」
琴美は部屋の外に待たせてある女性スタッフを呼ぶと、千佳を彼女に引き渡して部屋を出た。
披露宴のクライマックスにふさわしい装いで、千佳を次のステージへと導いて欲しい。琴美は心の中で、かつての恋人に願いを託した。
「終わったようだね」
姿のない声が聞こえた。確かめるまでもないと思いつつ、琴美はそちらを振り向く。
「いいえ、これからがメインディッシュです、河原崎先生」
「きみという人は、見れば見るほど気品がありながら残酷な女性だ」
「それはちがいます。妹を思えばこそ、姉としてできることをしてあげたまでです」
「彼女がそれを望んでいるとでも?」
「私とあの子は繋がっています。だから、私が嬉しいと思えば妹も嬉しいと思うし、逆に悲しいと思えばあの子も悲しいと思います。つまり、私が気持ちいいと思うことが、千佳にとっての快感になるはずなんです」
「結構」
そう言って郡司は琴美に手のひらを見せた。
「アトリエの準備はしておくから、あとは頼んだよ」
郡司の言葉に、「かならず」とだけ琴美が返すと、彼は式場の出口を目指し、琴美はまた披露宴会場へと戻るのだった。
*
『ヴァギナビーンズ症候群』
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