『ヴァギナビーンズ症候群』
15
混み合う時間帯を避けたつもりだったのに、ドラッグストアの店内にはそれなりに買い物客がいた。若い主婦や大学生などの女性客ばかりだ。
あまり顔を見られないように視線をそらせつつ、彼女は勇気を出して『それ』をカゴに入れた。さらに菓子パンやジュースなどを買い足して、あまり有効とは思えないカモフラージュをしてみた。
レジを通るまでは何度も息が詰まりそうになったが、ようやく支払が済んで気が楽になるというものでもなかった。生理が遅れている原因を明らかにしておく必要がある。
エコバッグから『それ』だけを取り出して残りを車に乗せると、彼女は近くの公衆トイレに駆け込んだ。
どちらが出ても私は大丈夫。責任は自分にもあるのだから、先延ばしにすればするほど決意が鈍るだけだ。
彼女は下着を下ろし、便座に座った。そして妊娠検査薬の任意の場所に尿をかけると、はあ、とため息をついた。これまでのことを思い返すには、ちょっぴり臭い場所だと思った。
もしもできていたとしたら、どの日のどの行為が決定的だったのだろうか。性行為の回数も異常だったけれど、まさかあんなものまで使ってしまうなんて、私はどうしようもなく淫乱な女になった気がする。 白黒はっきりさせたら、彼との関係はこの後どうなるのだろう。
彼女が我に返ると、果たしてそこに答えは出ていた。
*
「大事な話があるときには、きみは決まってこの店に僕を呼ぶんだね。いつだったか、僕がプロポーズしようとしたときにも、確かこの店を予約するようにきみからねだられたっけ」
テレビ画面の中の男は、テーブルを挟んだ対面の女を見つめて、臭い台詞を言う。
そういえば、三上明徳にはじめて唇を奪われたあの夜も、ちょうどこのドラマのキスシーンが流れていたことを、橘千佳は思い出す。
「別れましょう、私たち」
地上デジタルで映し出された人気女優の表情には、意外な新展開を期待させるものがあった。
「理由にもよるね」
「ほかに好きな人ができたの」
「きみの片思いなんだろう?」
「その人にレイプされたんだよ、私」
「おもしろい冗談だ。強姦された相手の男を好きになったって言うのかい?」
「あなたには無いものを、彼が持っていただけ」
微妙な沈黙がおとずれた。
千佳も生唾を飲み込み、沈黙が明けるのを待った。
「もう決めたことなのか?」
運ばれてきた料理には手もつけずに、俳優の男は台詞を口にする。
「じつは……、妊娠してるの。もう四週目になる」
「父親は僕ではないと、そう言いたいのだろう?」
「自覚しているなら話が早いわね。彼の仕事の関係で、海外で生活することになりそうだから。だからもう、私のことは忘れて」
「それにはおよばない。僕にも好きな彼女ができた」
「知ってる。相手が誰なのかもね」
「そうか……」
永遠の愛なんてどこにもない、男はそう悟って苦笑いをした。
女は左手の薬指からマリッジリングを外すと、赤ワインが注がれたままのグラスの中にいじらしく落とす。
そうして恋人役の彼女が涙目を腫らした瞬間、千佳はもらい泣きして鼻をすすった。
波乱に満ちた愛憎劇の行方は、ここで次回へ持ち越しになったのである。
自分が望んだとおりに事が進んでいるのは、素直に嬉しい。だが、三上明徳との関係を姉が知ってしまったら、たぶんすべてが狂ってしまうだろう。
似たような血が通っている二人姉妹なのだから、おそらくどこかで通ずるものがあるはずなのだ。だからいつまで隠し通せるのかも、もはや時間の問題と言える。
千佳は立ち上がり、ハードケースからヴァイオリンを取り出すと、おもむろに弦を鳴らしはじめた。
旋律は彼女の長い髪を震わせ、上半身を波打たせて反復するたびに美しく響いてくれる。
その涼しい音色は、三上明徳と橘琴美の結婚披露宴の席でも、二人の門出を祝うために奏でられるはずなのである。
*
「申し訳ありませんが、お煙草は喫煙ルームでお願いします」
堅いスーツに身を包んだ女性スタッフに声をかけられ、彼は出しかけた煙草の箱を礼服のポケットに入れた。僅かに悪びれた様子がある。
「いやあ、普段は煙草などめったに飲まないんだが、こういう場所にいると落ち着かなくてね」
「そうでしたか。お察しします」
「これからおもしろいものが見られると言うから来てみたのだが、どうにも肩が凝っていかん」
そう言って肩をたたく造作をする。
彼女は不思議そうな顔で彼をのぞき、「あのう、以前どこかでお会いになりませんでしたか?」と首を傾げる。
「わたしはこう見えても、警察の世話になったおぼえはないのだがね」
初老の男は指名手配のビラを仄めかしてきた。
女性スタッフの頬が緩むのを見届けて、つられて彼も、ははあと笑った。そして、わたしはこういう者だ、と中空でさらさらと筆をはしらせる真似事をする。
彼女の表情が閃く。
「そちらのお仕事の方でしたか。どうりで──。それにしましても、本日はまことにおめでとうございます」
姿勢よく会釈する彼女にならって、彼もまた白髪混じりの頭を軽く下ろした。
総合結婚式場内の喫茶スペースを兼ねたゲストフロアに、また各会場の要所要所にも、彼が寄贈した絵画が品良く飾られてある。
あまりおもてに顔を出したがらない性分なので、なかなか作者と作品が一致しないというのが悩みの種でもあり、時にそれが好転することもあるのだった。
今日まで、年寄りを年寄り扱いせずにいてくれた一人の女性の顔を思い浮かべながら、そろそろ行くかな、と彼はその重い腰を上げる。
*
粛々とした雰囲気の中、来賓の顔ぶれにあれだけ涙を見せていた新婦も、今はもう『三上』の姓を名乗る覚悟ができているのだなあと、姉の凛とした表情を見ながら橘千佳は思っていた。
その隣にいるタキシード姿の新郎はまぎれもなく三上明徳であり、一瞬たりとも千佳と目が合うこともない。
彼がどこか遠くへ行ってしまう、そんな心細さを打ち負かしてくれているのは、最愛の姉の幸せそうな笑顔だと知る。
ほどなくして千佳は名前を呼ばれ、小さなステージに立った。
一生に一度きりの、妹から姉へ贈る餞(はなむけ)の言葉。それは、新郎新婦へ決まりの弁を述べた直後だった。
「お姉ちゃん……」
千佳はそこで声を詰まらせる。それ以上は何を言おうとしても言葉にならず、今まで自分がどれだけ姉の恩恵を受けてきたのかを伝えたいのに、口から出てくるのは嗚咽とビブラートばかりである。
円卓のあちらこちらからも女性のすすり泣く声が聞こえ、美しすぎる姉妹愛の行方を、そこに居合わせた誰もが涙なくしては見届けられなくなっていた。
それでも千佳は気丈さを見せようと、唇同士を摺り合わせてから喉元に指をあてて、二、三度だけ小さな咳をした。
「お姉ちゃん──」
先ほどまでとはちがい、とても透き通った声がマイクロフォン越しに会場を渡っていく。
千佳は便箋と姉の顔へと等しく目を配り、ときどき新郎を牽制しながら、ありったけの実りの言葉を述べた。
スポットライトを浴びた千佳のドレスのスワロフスキーが、涙の数だけ光り輝いているように見えた。
「──しあわせになってね」
姉を慕う妹の祝辞が締めくくられると、コンサート直後のホールを揺るがす歓声のごとく、拍手は渦巻いて、新婦は黒い涙を流した。
お姉ちゃん、メイクが落ちてるってば。
千佳は琴美に向かって、くちパクでそう告げた。
*
『ヴァギナビーンズ症候群』
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