『ヴァギナビーンズ症候群』
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こんなやり取りをただの『仕事』だとまわりに偽り、実際にレポートとして報告した上で、フリーペーパーに掲載する許可ももらっている。
もちろん個人的な事情で極秘におこなった取材のため、事実とは別の記事を用意しておいたのは言うまでもない。
いまどき枕営業なんてゴシップ記事にもならないと思いながらも、人生で何度目かの大きな決断を琴美はしたのだった。
女の武器を有効利用しただけで、道徳に背を向ける行為をしたという自覚も消え失せていたのだろう。
ただ、見違えるほど女らしさに磨きがかかったことについては、唯一無二の天才に拾われたからにちがいなかった。
*
「プラチナのペアリング、っていうのはありきたりかな」
隣の彼女の顔色をうかがいながら、三上明徳は賢い笑みをつくって訊いてみた。彼女がどんな申し出をしようと、けして揺るがない経済力が彼にはあるのだ。
「私って、こう見えてけっこう優柔不断なんですよ」
「僕にはその通りに見えるけどね」
「ええ、ひどおい」
二十三歳の誕生日を明日に控えた橘千佳は、彼に向かって思いっきり悪い顔で睨んだ……つもりだ。
「可愛い顔して、それで怒ったつもりかい?」
「もう……」
そんなこと言われたって、幸せすぎてここ最近本気で怒ったことも記憶にない。千佳の尖った唇がだんだん緩やかなカーブを描き、それはやがて笑顔に変わる。
こちらなんかいかがですかと、ショーケースを挟んだ向こう側から女性店員が提案してくる。
若い上に美人だなと明徳は思った。
そんな彼が彼女に抱いた第一印象を、千佳は女の勘で見透かしていた。
とっさに「あっちも見たいな」と千佳は明徳の腕を引っ張り、半ば強引に移動を促す。
二人の目の前には、エンゲージリングやマリッジリングを扱ったディスプレイが、永遠の光をたたえながらショーケースに収まっていた。
それぞれの頭の中に真っ先に浮かんだのは、橘琴美の存在以外の何者でもない。こうやって二人きりで会っているときぐらいは、できるだけ彼女のことを考えないようしようと意識していたのだ。
「私やっぱり、ほかに欲しいものがあるから」
そう言った千佳が示した店に二人で訪れることになり、先ほどとおなじようにショーケースのあちこちに視線を送る時間がまたつづく。
それほど広くない店内には甘い匂いが漂っていて、すでに昼食を終えたばかりの彼女の別腹をくすぐっていた。
「ここのカスタードプリン、女の子に人気なんですよ」
洋菓子の表面に浮いたヴァニラビーンズの黒い粒々を見ながら、千佳はいっそう瞳を輝かせる。それはどんな鉱石よりも純粋に明徳の心を魅了した。
洋菓子店『シュペリエル』の駐車場に一台の車が入ってきた。ピンク色のコンパクトカーは切り返しなしで白線内におさまると、どこのガールズコレクションから抜け出して来たのかと思うほどの風格を備えた若い女性が、運転席側から降り立った。
毎週土曜日には人と会う約束がしてあり、今日は六月の第四土曜日だった。
先方のお気に入りでもあるカスタードプリンを買い求めて、そのまま夜まで一対一のミーティングがつづく予定である。体と体で論議を交わす、面会謝絶のミーティングが。
そんなこととは知らない千佳と明徳は相も変わらず、スイーツよりも甘くのろけ合って、ケーキの『あるある話』で盛り上がっている。
琴美が車を離れようとしたとき、彼女の携帯電話に着信があった。実家の母親からだった。
「これから仕事で忙しいんだけど」と琴美が突き返すと、「あらまあ、休日ぐらい休ませてもらいなさいよ。式までにやっておかなきゃいけないことが、新婦にはたくさんあるんだから」と電話の向こうから聞こえてくる口調はやや呑気である。
とくに用事はないということで、毎度のことながら三上、橘両家の親族にはくれぐれも失礼のないようにと念を押す母に対して、いずれは自分の気持ちを正直に話さなければいけない時が来るのだと、今はそっと謝罪の言葉を飲み込んだ。
「いらっしゃいませえ」
女性スタッフの溌剌(はつらつ)とした声に琴美は出迎えられた。人気店の土曜日の店内は混雑必至である。
人の流れの最後尾にいた彼女は、数秒前に聞いた女性スタッフの声が「ありがとうございましたあ」と言ったので、なんとなく店の出入り口に目を向けてみる。
ちょうど一組の若い男女の客が出て行くのが見えた。一瞬、見覚えのあるような不思議な感覚に胸をざわつかせたが、彼らの後ろ姿が見えなくなると、それはすぐに治まった。
目的のものはきちんとショーケースの中に陳列されていて、琴美の舌と胃袋を刺激するのだった。
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『ヴァギナビーンズ症候群』
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